日本の城郭建築の完成形を維持する松山城

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もの事を追求して行くとそれに比例して美しさも向上するのでしょうか?

日本の現存12天守の一つ松山城はその答えを教えてくれる城と言えそうです。

01 松山城見上げれば空に向かって延びる高い石垣。

02 松山城

03 松山城攻め手側は心理的にその威圧感に戦意を奪われるでしょう。

トリッキーな工夫の織り込まれた本丸までの道筋。

天守が前方に見えた時、攻める敵兵は目の前の道を勢いに任せて突き進もうとします。が、その先は行き止まり。実際は右手に折れて180度Uターンしなければなりません。

04 松山城↑天守に向かって道は直進しているように見えますが、写真右手に道は折れ曲がっています。

本丸正門として設けられている筒井門の右脇に潜む隠門。

眼前の筒井門に殺到するであろう敵を背後から襲う為に設けられた門です。

05 松山城_筒井門↑筒井門

06 松山城_隠門

↑筒井門の右側に設けられた隠門

本丸に辿り着いた兵に対し難攻不落の様相を漂わせて待ち構える天守を備える本檀。

07 松山城_本檀↑松山城本檀

08 松山城_天守↑松山城天守

本檀は天守を石垣と櫓によって囲んでいる為、攻め来る敵に対し四方から攻撃できる鉄壁の要塞と言えるでしょう。

複数の小天守や櫓と天守を渡櫓などで環状につなげたものを連立式天守と言います。この構造は日本の現存12天守の中では松山城と姫路城にしか見られません。

09 松山城

10 松山城

11 松山城↑連立式天守を構成する子天守、櫓、渡櫓

松山城は姫路城(兵庫県)、和歌山城(和歌山県)と並び日本三大連立式平山城の一つに数えられています。

因みに、平山城とは平野の中にある山、丘陵等に築城された城のことを言い、松山城は姫路城、津山城(岡山県)と共に日本三大平山城の一つにもなっています。

12 松山城

以上のように松山城は戦略的に熟考された城郭構造を持つ城であり、その容姿は大変美しいものに仕上がっています。

防御機能を徹底的に追求する事によりその機能が洗練され、それに乗じて美観も洗練された実用性と芸術性を兼ね備えた城と言ったところでしょう。

13 松山城

「もの事を追求して行くとそれに比例して美しさも向上する」

これは色々な事に言えるでしょう。例えばどんなスポーツでもそれを追求すれば肉体は鍛えられスポーツマン精神が宿り心は美しくなりますね。

さて、実用性と芸術性を追求した松山城は城郭建築おける最終形とも言えます。

と言うのも現在の天守を含む本壇の完成は武士の世が終わるきっかけとなった幕末、ペリー来航の翌年の1854年だからです。

この時期に造られた理由は1784年の落雷により天守を含む本壇の主な建物が焼失した為です。

しかし、ここに一つ疑問が残ります。

江戸幕府は武家諸法度により天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていました。従って天災などで失った天守の再建は基本的に出来なかったはずです。

ではなぜ松山城は城を再建出来たのでしょうか?

その謎は定かではありませんが答えは城主にあるかもしれません。

関ヶ原の戦(1600年)で徳川家康率いる東軍に従軍した加藤嘉明(かとうよしあき)はその時の戦功が認められ伊予国の元々持っていた領地に10万石が加増され20万石の大名となりました。

そして1602年、道後平野の中枢部にある勝山の山頂に築城を開始し翌年の1603年にこの城の初代城主として入城しました。

14 松山城マスコットキャラクターよしあきくん↑松山城マスコットキャラクターよしあきくん

これが松山城の始まりです。

その後、松山城主は1627年に蒲生忠知(がもうただとも)に代わり次いで1635年に松平定行(まつだいらさだゆき)が初代伊予松山藩主及び3代目城主として入城しました。

以降、松代氏が藩主を14代世襲して明治維新に至ります。

親藩(しんぱん)とは徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指します。伊予松山藩は親藩に当たる為、葵紋の使用が許されました

前述した落雷による天守の消失時に再建したのは第12代藩主松平勝善(まつだいらかつよし)です。

この時、勝善が直接指示したのかどうかは分かりませんが現存12天守の中で唯一、松山城の鬼瓦には葵紋が入っています

15 葵紋の入った鬼瓦↑葵紋の入った鬼瓦

武家諸法度によって天守の再建が規制される中、松山城が再建出来た理由は勝善が親藩の藩主だったからと言う理由が有力ではないでしょうか。

更に付け加えるなら松山と言う地名も手伝っているかもしれません。

築城主である加藤嘉明は元々豊臣秀吉に仕えていた外様大名です。しかし、嘉明は徳川家康が喜ぶような事をしています。

松山城は嘉明が勝山の山頂に築城しました。この時、徳川家康の旧姓である松平の「松」をもらい受け松山としたと言う事です。

これは松山の名前の由来の一説ではありますが有力な説ではあるようです。

徳川家に関連する名前を持った城であれば再建の許可をしても良いだろうと幕府は判断したのかもしれませんね(^^)

徳川家にゆかりのある松山市は現在四国地方で最大の人口を擁し、中核市に指定されるまで発展しました。

そして松山城は今も勝山の山頂から日本最後の城郭建築として洗練された美しさを保ちながら松山の街を見守り続けています。

↓天守最上階から見渡す松山市街

16 松山城天守からの眺望

17 松山城天守からの眺望

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