自分の意志ではなく、他人の誘いや思いがけない偶然によって良い方に導かれることもあります。
「牛に引かれて善光寺参り」
信心の無い欲深い老婆が、さらしていた布を隣の家の牛が角に引っかけて走り出したのを見て、その牛を追っていくうちに善光寺に辿り着き、それがきっかけで度々善光寺に参詣するようになり、信仰の道に入った言い伝えから生まれたことわざです。
老婆の心を入れ替えてしまった善光寺はどのようなお寺なのでしょうか?
日本に仏教が伝えられた古墳時代、神事に携わっていた有力豪族である物部氏は仏教に対して強硬な廃仏派でした。
この頃、百済(くだら)から日本へもたらされた日本最古とされる仏像を物部氏が難波の堀江(現在の大阪市)に捨てたと伝えられています。
麻績の里(おみのさと:現在の飯田市)の住人だった本多善光(ほんだよしみつ)は上洛した際にこの仏像を見つけて持ち帰り飯田の地に祀り(元善光寺)、その後642年に現在の地に移された。
これが善光寺の始まりであり、名前の由来となっています。
↑善光寺_本堂
参拝者を出迎える仁王門をくぐり賑やかな仲見世通りを抜けると「善光寺」の扁額を掲げる巨大な山門が迫ります。
↑善光寺_仁王門
↑善光寺_仲見世通り
↑善光寺_山門
ちなみにこの「善光寺」の文字には5羽の鳩が隠れていますが分かりますか?(答えは最後に)。
↑善光寺_山門の扁額
そして、山門の向こう側にどっしりと待ち構えているのが日本一の面積を誇るひわだ葺の屋根を持つ東日本最大の国宝建築物の本堂です。
↑善光寺_本堂
その大きさには誰もが圧倒されるでしょう。
この荘厳な造りの本殿には向拝(こうはい)部分(仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分)にある8本を除いて108本の柱があるそうですがその内の1本だけが何故か四角に加工されているそうです。
一般公開されてないこの柱は守屋柱(もりやばしら)と呼ばれています。
守屋と聞いてピンと来た人もいるのではないでしょうか?
そうです物部守屋(もののべのもりや)です。
物部守屋は仏教の受け入れの可否を巡って崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と対立していた時の物部氏の長です。守屋は最終的に崇仏派の蘇我氏によって攻め滅ぼされています。
守屋柱と物部守屋は何らかの関連があるのでしょうか?
もしあったとしても物部氏は廃仏派でした。そもそも善光寺の御本尊は物部氏が捨てたものです。なぜ守屋と名付けられた柱がお寺にあるのでしょうか?
不思議ですね〜
名前の由来の一つとして単に屋を守ると言う意味から来ていると言う説があるようですが、もっと興味深い説があります。
それが「物部守屋の首」がこの柱の下に埋め込まれていると言う説から来ていると言うものです。
なぜこのような説があるのでしょうか?
善光寺縁起に「艮隅の柱を彫りて守屋が首を納め給う。今に到りて守屋柱と名づくるはこれなり」と書かれている事からと言うのがその出どころのようです。
しかし、この記述の前には「終に推古天皇の御宇、定居三年癸酉、立願の如く速やかに四天王寺を草創す」と言う文がある事から、ここに出てくる守屋柱は四天王寺の事を指している為、善光寺の守屋柱では無いと解釈出来ます。
では、善光寺の守屋柱としての記述がある文献は存在するのでしょうか?
「善光寺如来堂再建記」(1869年)、あるいは「本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)」(1746年)が最古のものとして存在します。ちなみに、それ以前に明確に記載されているものは無いそうです。
善光寺は過去に何度も焼失し、現在の善光寺本堂は1707年建立されたものですから、上記の文献が書かれた年代と照らし合わせると守屋柱はおそらく1707年に再建された時に設置されたと考えられます。
そうなると、なぜこの時に設置されたのか?と言う疑問が出て来ます。
そのヒントとなる記述が前述の善光寺縁起にあります。
「守屋が首を納をかせ給ひける。是即怨(あだ)を恩にて報ずるとき、その怨をかへつて守となるといふ事、末代の衆生にしめしためへる善巧なり」
これも四天王寺に関しての記述ですが重要なところを意訳すると「守屋の霊を弔うことによって、守屋の怨みは、かえって守りへと転じる」としているところです。
つまり、守屋柱を善光寺を守護するために設置したとしたなら現在の善光寺に守屋柱が存在するのも頷けます。
そして、この説が正しいとしたならば守屋柱の効果は出ているのでしょうか?
以下、善光寺の火災の記録を記載致します。
1179年:本堂、四面回廊等全部焼失
1268年:堂塔1棟も残さず焼失
1313年:本堂等焼失
1370年:本堂等焼失
1425年:寺内の一部焼失?
1427年:1棟も残さず全焼
1474年:本堂焼失
1615年:本堂等、寺内全焼
1642年:本堂焼失
1700年:寛文如来堂および新本堂用の建材等焼失
1474年の焼失から1615年の焼失の間を除けば全て100年も経たずに焼失しています。ところが現在の本堂が再建(1707年)されてから2018年の時点で300年以上焼失していません。
守屋柱は絶大な効果を発揮していると言えそうです!
更に加えるなら守屋柱は長野市内にある皇足穂命神社(すみたるほのみことじんじゃ)の杉材が使用されている可能性があるとの事です。
皇足穂命神社は火防随意一の神社とされているそうです。
やはり守屋柱には目に見えない力が宿っているのでしょうか?
守屋柱も含め善光寺は多くの謎が残されています。ご興味のある方は長尾晃著「善光寺コード」に記載されているのでご覧になって下さい。
さて最後に善光寺の御本尊についてです。
善光寺では7年に一度の御開帳で前立本尊が公開されます。しかしこの前立本尊は本堂奥の厨子の中に安置されているご本尊を模鋳したものです。
↑前立本尊が安置されている本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進
ご本尊は絶対秘仏とされ現在に至るまで参拝者はもちろん、善光寺の僧侶でさえ見たことがありません。
物部氏が捨てたとされ、誰も見た事の無いこのご本尊にこそ、もしかしたら守屋柱の真実が隠されているかもしれませんね。
「遠くとも一度は詣れ善光寺」
是非一度訪れて謎の解明に当たって見ては如何でしょうか?
※山門の扁額に隠れている5羽の鳩ですがhttps://zenkozi.comさんの写真が良く分かるのでコピーさせて頂きました。善の字に2羽、光の字に2羽、寺の字に1羽の鳩がいますね。