豊かな感性は馬籠宿に行けば身に付けられるかも?

このエントリーをはてなブックマークに追加

町に入って最初に視界に入る大きな水車と常夜灯。この先にどんな風景が待ち構えているのか?

高揚感を高めてくれます。

石畳をまとう坂道。木のぬくもりを漂わす家々。綺麗な水はかつて旅人の喉を潤したでしょう。中山道(なかせんどう)43番目の宿場。木曽路の南の入り口として栄えた馬籠宿(まごめじゅく)です。「続日本紀」によれば馬籠が街道のルートとして織り込まれるようになったのは702年の岐蘇山道(きそのやまみち)、713年の吉蘇路(きそのみち)が開通した時だとか。

平安・室町時代になると馬籠遠山氏(まごめとおやまし)の名が文献に顔を見せているので歴史的にはかなり古くから存在していた事になります。

しかし、私達が宿場と聞いてイメージするのは江戸時代に入り五街道(ごかいどう:東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)が整備され始めて以降の風景でしょう。

今私達が見る事の出来る馬籠の風景も江戸時代のものです。

ただ、現在の姿は1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により焼失した町並みが復元されたもの。とは言え今も尚、訪れた人の心を癒してくれる事に変わりはありません。

宿場で重要な役割を果たしたものの1つに本陣があります。

その起源は1363年室町幕府2代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が上洛の際に宿舎を本陣と称して宿札を掲げたことが最初と言う説があります。但し、信憑性は定かではないようです。

はっきりとしたものでは1634年江戸幕府3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)が上洛の際に宿泊予定の邸宅の主人を「本陣役・本陣職」に任命したと言うものです。

いずれにしても将軍様が上洛の際に宿舎として指定した事にあるようですね(^^)

本陣は前後の宿場間の距離が短い場合には置かれない場合もありましたが馬籠には置かれていました。↑馬籠宿本陣資料館

そして馬籠本陣の最後の当主となった島崎正樹(しまざきまさき)の四男として生まれたのが詩人であり小説家である島崎藤村(しまざきとうそん:本名=春樹(はるき))です。

よって馬籠は島崎藤村の生誕地でもあるのです。↑馬籠宿本陣跡・藤村記念館馬籠宿本陣跡・藤村記念館内にある宿本陣隠居所(2階:島崎藤村の勉強部屋)↑島崎藤村の勉強部屋

藤村といえば小説「破壊」が有名ですが父・正樹(まさき)をモデルにした「夜明け前」では馬籠が舞台となっており当時の宿場の役割や時代の変化と共にその機能が失われていく様子が細かく描写されています。↑島崎藤村の父・正樹の墓


夜明け前 全4冊 (岩波文庫)

以上のような歴史を持つ馬籠には興味深い言い伝えが残されています。

以前、木曽路のほぼ中間点にある「寝覚の床(ねざめのとこ)」の浦島伝説について紹介した事があります。寝覚の床は浦島太郎が玉手箱を開けた場所として伝説が残されていますが、木曽路の入り口に当たる馬籠には竜宮乙姫伝説が残されているのです。

寝覚の床で釣りをしていた浦島太郎が亀に乗って連れられて来たと言うのが馬籠だったと言う事です。

寝覚の床も馬籠も山の中なのに面白いですね(^^)

この伝説を意識してかどうかは分かりませんが島崎藤村は「浦島」と言う詩を残しています。

浦島の子とぞいふなる
遊ぶべく海邊に出でて
釣すべく岩に上りて
長き日を絲垂れ暮す

流れ藻の青き葉蔭に
隱れ寄る魚かとばかり
手を延べて水を出でたる
うらわかき處女(をとめ)のひとり

名のれ名のれ奇(く)しき處女よ
わだつみに住める處女よ
思ひきや水の中にも
黒髮の魚のありとは

かの處女嘆きて言へる
われはこれ潮の兒なり
わだつみの神のむすめの
乙姫といふはわれなり

龍(たつ)の宮荒れなば荒れね
捨てて來し海へは入らじ
あゝ君の胸にのみこそ
けふよりは住むべかりけれ
『「落梅集」より 1899年(明治32年)〜1890年(明治33年)』

幼い頃に聞いた昔話が時を経て大人になった時に詩へと変化したのかもしれません。

山深い宿場に残る海の伝説。このアンマッチが藤村の感性をくすぐったのかもしれませんね。

全く正反対のものに何らかのつながりを持たせると面白いものが生まれる可能性がありそうです。

馬籠の風景を見れば豊かな感性を育めるかも?

【関連動画】

中津川のお土産情報です。

このエントリーをはてなブックマークに追加