私達は生活に欠かせない多くのものを自然界から与えられています。
石材の通称として御影石(みかげいし)と呼ばれる花崗岩(かこうがん)もその1つと言えるでしょう。
日本では古くから城の石垣や道標、あるいは石の鳥居等に用いられて来ました。国会議事堂の外装に使用されているのも花崗岩です。
愛知県の岡崎市、茨城県の真壁町と並び香川県高松市の庵治町(あじちょう)と牟礼町(むれちょう)にまたがる五剣山(ごけんざん)の山麓一帯は花崗岩の三大産地の一つとされています。↑花崗岩と遠くに採掘場
そこで採掘された花崗岩は庵治石(あじいし)と呼ばれ、文献に登場するのは石清水八幡宮の「建武回禄記」が初めてとされており、室町時代の初期に当たる1339年、宝殿や拝殿の再建の為に使用されたと記録されているそうです。↑庵治石
庵治石は一般的な花崗岩より結晶が細かく水晶と同等の硬さを持ち、磨けば輝きを増し花崗岩のダイヤと呼ばれ世界的にも高く評価されています。↑庵治石
花崗岩は庵治町、牟礼町にとっては世界に誇れる重要な特産品なのです。
さて、花崗岩が採掘されるこの地域にはもう1つ注目すべき石があります。
それが駒立岩(こまだていわ)です。↑駒立岩
源平合戦の1つ「屋島の戦い(やしまのたたかい:1185年)」は庵治町・牟礼町の対面に位置する屋島と牟礼町周辺が戦場となった戦いです。
屋島の戦いの中で一番有名な場面は那須与一(なすのよいち)が弓を射る場面と言っても過言ではないでしょう。
屋島の戦いは知らなくても那須与一と聞いてピンと来た人は多くいるのではないでしょうか?
屋島沖に船を停泊させていた平氏軍。その平氏軍の中から美しく着飾った若い女性の乗った小舟が近づいて来ます。
その女性は日の丸を描いた扇を先端に付けた竿を持って立っていました。
平氏軍に挑発された義経は弓の名手だった那須与一を呼び「扇の真ん中を射抜け!」と命じました。
与一は馬と共に海中に乗り入れ扇に狙いを定めます。
ここで扇を射止めるかどうかが源氏の士気に関わると言う重要な場面。
与一は見事に的を射抜きました!
これが「平家物語」巻第十一の「扇の的」の有名な場面です。
そして、与一が足場を安定させる為、馬を立たせた場所が前述した駒立岩です。↑駒立岩の遠く先に見える扇を建てた小舟と着物を来た女性の看板。
如何でしょうか?
駒立岩は庵治石と並んでこの地域にとって重要な石と言えますよね?
ちなみに、本来は与一より弓の腕前が上だった与一の兄・為隆(ためたか)が射るところでしたが怪我の為、代わりに与一が射ったと言う事です。
スポーツ等の大会で、優勝候補だった選手が怪我により棄権し、代わりに選ばれた人が優勝してそれがきっかけで有名になったと言うような話はよくありますよね。
これは代わりとなった選手が日頃から練習を怠らずに備えていたから成り立つ話です。
チャンスはいつ巡って来るか分かりません。その時に備えて準備をしておく事は非常に大切な事と言えるでしょう。
さて、駒立岩の周辺には屋島の戦いに関わる史跡が点在しています。↑屋島合戦古戦場の石碑↑与一に関わるもう1つの重要な石。弓を射る前に与一が的を射抜く事を願ったとされる「祈り岩」↑義経が平氏方の兵に熊手をかけられ、脇下に抱えていた弓を海中に落とした為、右手の太刀で熊手をあしらい左手のムチで弓をかき集めた場所とされる「弓流しの跡」↑源氏の武将・佐藤継信(さとうのぶつぐ)が大将の義経の身代わりとなって射たれた場所とされる「射落畠(いおちばた)↑平氏が門を構えて防御に備えたとされる「総門跡」
史跡以外に与一に関するモニュメントもあります。↑那須与一扇の的のモニュメント↑与一橋
上記の写真の石碑、モニュメントは庵治石で造られていますね。
更に加えるなら現在駒立岩のある入江の護岸に使用されている石は庵治石です。駒立岩は庵治石に守られていると言えるでしょう(^^)↑駒立岩を囲むように組まれている護岸用の庵治石
那須与一によって駒立岩と庵治石と異なる石が繋がったと言えますね。
この地域に訪れた際は「屋島の戦い」と「石」をキーワードに散策して下さい。新たな繋がりを発見出来るかもしれませんよ!