石垣は知恵が絞り込まれた立体芸術と言えるかもしれません。お城や歴史に興味が無い人でもその芸術性の高さを感じる事は出来るでしょう。
その石垣を見られるのが丸亀城(丸亀市)です!
4層から成る石垣は山麓から頂上まで合わせると60mに達し日本一の高さを誇ります。因みに1層、つまり単体の高さで日本一の石垣を持つのは大阪城です。現在、私達が見る丸亀城は大きく分けて3つの過程を経て完成したと言えます。
その始まりは豊臣政権の時代まで遡ります。
1587年、生駒親正(いこまちかまさ)が17万石の讃岐一国(現在の香川県)を与えられた後、長男の一正(かずまさ)と共に高松城を本城、丸亀城を支城として築城を開始しました。
しかし、大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏が滅びると徳川幕府が一国一城令を発します。これにより支城だった丸亀城は廃城となりました。
更に、讃岐一国を治めていた生駒氏ですがお家騒動(生駒騒動)を起こし改易されます。
この改易により讃岐の国は東西に二分されその西側が丸亀藩となりここへ丸亀藩初代藩主となる山崎家治(やまざきいえはる)が入封しました。
家治は廃城となっていた丸亀城の改修に着手します。現在の石垣は山崎氏が藩主を勤めていた時に出来上がったものです。山崎氏が石垣を築いた時期の伝説が残っているので紹介しましょう。
『石垣造りの名人として丸亀城の石垣造りに携わった羽坂重三郎は城主から「見事な石垣である。この石垣を乗り越えるものは空飛ぶ鳥以外にはあるまい」と賛美の言葉を頂きました。
それに対して「私に尺余りの鉄棒を下されば容易に登れます」と答えて鉄棒を使い石垣を簡単に登ってしまいました。
これを見た城主は重三郎が敵に通じる事を恐れて城内の井戸の調査を命じ井戸の中にいる間に埋め殺してしまいました。
その後、城内には重三郎の幽霊が出没するようになったと言う事です』
「能ある鷹は爪を隠す」とは少しニュアンスが異なるかもしれませんが自分の能力を披露するのは時と場合を選ばなければならないと言う事ですね。
因みに重三郎が埋められた井戸は日本一の深い井戸として現在も二の丸跡に残されています。
もう1つ伝説があります。
『石垣工事が難航していた為、雨の降る夕暮れ、作業現場付近を通りがかった1人の豆腐売りを捉え生き埋めにしてしまいました。
石垣は完成しましたが、それ以来、雨の降る夜は石垣の辺りから「とーふー、とーふー」と言う豆腐売りの泣き声が聞こえて来たと言います』
如何でしょうか?
石垣を造るのも命懸けだったと言ったところですね。さて話を元に戻しましょう。
石垣を造った山崎氏の後に丸亀藩の藩主となったのが京極高和(きょうごくたかかず)です。
高和は1660年に現在ある3層3階の天守を完成させました。この天守は日本の現存12天守の中で一番小さな天守となっています。
高和は出来上がっていた城の土台に仕上げとして小さな天守を建てて完成させたと言うことになります。最後に餅を食べたのは京極氏と言った感じですね(^^)
さて京極氏には他から羨ましがれる物を所持していました。それを指して「京極に過ぎたるものが三つある にっかり 茶壺に 多賀越中」と言われています。
茶壺は現在、MOA美術館(熱海市)に所蔵されている国宝の「色絵藤花図茶壺」。多賀越中とは丸亀藩の重臣として代々京極氏を補佐した多賀氏のことです。
さて、にっかりについてです。
何の事だか分かりませんよね?
にっかりとは豊臣秀頼から京極家に譲られた南北朝時代の備中青江派作「にっかり青江」と呼ばれる名刀を指します。
名前の由来は、夜道で出くわしたにっかり笑う女の幽霊を斬り捨てて、翌朝確認をしたら石塔が真っ二つになっていたという伝説からとの事。
以上が「京極に過ぎたるものが三つある にっかり 茶壺に 多賀越中」の説明となりますが、立派な石垣を持つ丸亀城は4つ目の過ぎたる物と言えるかもしれませんね。
このように過ぎたるものを持ち合わせた京極氏は高和から7代続き廃藩置県を向かえました。一方、立派な石垣を築いた山崎氏は3代で嫡子がなくお家断絶となっています。
その理由はもしかしたら、石垣造が原因で現れた幽霊の祟りによって山崎氏は3代でお家断絶となり、その幽霊は京極氏の持つにっかり青江を恐れて逃げた事により京極氏は廃藩置県まで代を継ぐ事が出来たのかもしれません。
にっかり青江は現在、丸亀城域内にある丸亀市立資料館に保管されています。これによりこの先も丸亀城の現存天守は守られ続ける事でしょう。時代を跨ぎ絶妙に絡み合う伝説が残る丸亀城。次に丸亀城にはどのような伝説が生まれるのでしょうか?