栗林公園を築き上げて来た高松藩の歴代藩主

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「栗林公園(りつりんこうえん)は一日にして成らず!」↑栗林公園_東門

長い年月を掛けて完成した日本庭園は美しく洗練された空間を提供してくれます。

室町時代の末期、この地の豪族だった佐藤道益(さとうみちます)が公園内の西の端に位置する小普陀(しょうふだ)の辺りに居宅の小庭を築いたのが栗林公園の起源とされています。↑栗林公園_小普陀

かつてこの近くを流れていた東西二筋の香東川(こうとうがわ)。江戸時代の初期、その東の流れは治水工事により堰き止められ、その結果として豊富な伏流水を持つ広い土地が出現しました。

この頃、この地を治めていた生駒氏はこの土地と佐藤道益の居宅跡を基礎に栗林公園につながる庭造りを始めます。そうして出来た庭園は栗林荘と名付けられました。

ここまでが栗林公園完成までのプロローグとするならば生駒氏の転封に伴い代わりに松平頼重(まつだいらよりしげ)が1642年に高松藩初代藩主として入国してからの庭造りは本編と言えるでしょう。

頼重は松平家の別邸として栗林荘に御殿を建てます。これが栗林公園における本格的な造園の始まりです。以降、2代藩主頼常(よりつね)、3代藩主頼豊(よりとよ)、4代藩主頼桓(よりたけ)による拡充整備は進められ、1745年に5代藩主頼恭(よりたか)による「名所60景」の命名をもって現在に通ずる栗林公園が完成しました。

1〜5代の高松藩藩主が作庭に費やした月日は約100年!この築庭にかかった期間は日本一だそうです。

庭園と言えばお金が掛かり一般庶民から見たら贅沢なものです。なぜ、高松藩ではこの長い期間、築庭を継続する事が出来たのでしょうか?

これはあくまでも個人的な推測ですがその理由はこの藩主たちの政策が領民に支持されていたからなのかもしれません。

と言う事で高松藩1〜5代藩主の経歴を見てみましょう。

1代藩主頼重は水戸徳川家初代徳川頼房(とくがわよりふさ)の長男です。

と言われてもピンときませんよね。

では徳川光圀(とくがわみつくに)の兄と言ったら分かりますよね?

そうです。徳川光圀とは水戸黄門の事です。

頼重は水不足に常に悩まされる高松城下に配水枡・配水管を地中埋設し、日本で初めてとも言われる本格的な上水道を敷設しています。また神仏に対して信仰心が厚く、藩内の寺社の再興・修復に努め、寄進も行いました。

さすが黄門様のお兄さんですね(^^)

2代藩主の頼常は学問に力を入れ城下に藩校講堂を創建し、家臣の子弟や庶民にまでも儒学を学ばせています。藩の財政面においては厳しい倹約令を定めて立て直しを図りました。

3代藩主頼豊の時代は享保の大飢饉の影響で厳しい藩財政に見舞われましたが藩士の知行を削減するなど財政の再建と出費抑制に努めると共に生活に苦しむ領民の租税を軽減しています。

4代藩主の頼桓は享年20歳と若くして亡くなっていますがそれでも2代藩主頼常の倹約や学問奨励の政治路線の継承に努めました。

最後に5代藩主の頼恭です。頼恭は藩の収入源を確保するため平賀源内の登用によって薬草の栽培を行わせたり、当時は高価な貴重品とされていた砂糖栽培の研究を行わせたり、あるいは塩田開拓により塩の増産を図る事もしました。また領民に対してはその声を聞くために投書箱を設置しています。

如何でしょうか?

おしなべて君主は横暴になりがちですが高松藩の藩主は比較的良い藩主だったと言えるでしょう。

頼恭以降もこの傾向は幕末まで続いています。

美しい栗林公園は高松藩の藩主たちの性格が描写されたのかもしれません。

それではここで栗林公園の主だった見どころを紹介したいと思います。↑栗林公園_涵翠池

↑栗林公園_掬月亭↑栗林公園_迎春橋↑栗林公園_南湖↑栗林公園_北湖

如何でしたか?

栗林公園は日本三名園(金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園)には入っていません。しかし、1910年(明治43年)に文部省が発行した「高等小学読本 巻一」の第六課「公園」の末文には栗林公園を「木石の庭の美しさは日本三名園より優れている」と評しています。

さて、プロローグ、本編と来ましたので、以下をエピローグとさせて頂きます。

栗林公園は東京ドーム3.5個分にあたる約16.2ヘクタールの広さを誇ります。これは文化財保護護法により名勝に指定されている約200庭園の中で最大級の広です。更に借景(遠くの山などのけしきを、その庭の一部であるかのように利用してあること。そういう造園法)を構成する紫雲山を含めた面積は、東京ドーム16個分の約75ヘクタールと言う日本一の広さになります。↑栗林公園_紫雲山↑紫雲山を借景にした栗林公園

一方、個人的な解釈ですが日本庭園を最小限に縮小して表現したものが盆栽だと思います。↑栗林公園に展示されている盆栽

偶然なのか必然なのか、高松市の鬼無地区と国分寺地区は、松盆栽において国内最大の生産地であり、その生産高は全国の約8割を占め、ここから出荷される盆栽は「高松盆栽」と呼ばれています。

ちなみに栗林公園は約1400本の松を有する松の公園です。ここにもシンクロ性を感じます。

↑栗林公園_鶴亀松↑栗林公園_盆栽を地に下ろしたものが成長したといわれる根上り五葉松

高松藩の最後の藩主、11代頼聰(よりとし)の八男に松平賴壽(よりなが)という人物がいます。

賴壽の経歴の一部を見ると興味深いものが見えて来ます。簡単にその経歴を紹介しましょう。

『1934年に国風盆栽会(現・日本盆栽協会の前身団体のひとつ)を設立し初代会長に就任。日本で最も歴史のある盆栽の品評会である国風盆栽展(国風展)の設立と開催に寄与。更に小さな鉢の中で、自然界の大樹や景色を縮小表現するという小品盆栽という境地を開いた先駆者でもある』↑栗林公園_松平賴壽の像

私たちは栗林公園のような巨大な庭園を持つことは普通では出来ません。しかし、盆栽ならだれもが手に入れる事が出来ます。高松藩歴代藩主の領民に対する思いは廃藩後も受け継がれているように感じます。

栗林公園と高松藩の歴代藩主は良心を持って長い年月を経て構築したものはその頂点に立つと共に形を変えても維持されると言う事を証明している気がします。

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