その町の歴史を語る上で必要な建物は復元されたり姿を変えたりして新たな歴史を刻み始めると言えるかもしれません。
由比(ゆい)の町(静岡市)にもそれはあります。
由比宿は江戸時代、本陣(大名の宿泊施設)1軒、脇本陣1軒、旅篭屋(はたごや)32軒を抱える東海道五十三次の16番目の宿場町として栄えました。
現在、本陣のあった場所は多目的施設「東海道由比宿交流館」や江戸時代の浮世絵師・歌川広重の作品を展示する「東海道広重美術館」、あるいは明治天皇が休息した本陣の離れ座敷を復元した「御幸亭」などが併設される由比本陣公園として整備されています。↑由比本陣公園↑由比本陣公園_東海道由比宿交流館↑由比本陣公園_東海道広重美術館↑由比本陣公園_御幸亭
本陣そのものは復元されていませんがこれからも古い歴史を伝えながら新しい歴史を刻み続けて行く事でしょう。
由比本陣公園の向かい側の紺屋(染物屋)にも歴史は刻まれています。
正雪紺屋(しょうせつこうや)は江戸時代から400年続く老舗の紺屋であり、1651年の慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者とされる由井正雪(ゆいしょうせつ)の生家跡と言われています。↑正雪紺屋
慶安の変とは関ヶ原の戦い(1600年)、大坂冬の陣(1614年)大坂夏の陣(1615年)によって減封・改易となり武士としての地位を失った浪人達が軍学者の由比正雪を中心に幕府の転覆を計ろうとした事件です。
この事件は事前に計画が発覚し正雪が捕まり自決する事で終息しました。
さて、由比に本陣が置かれた江戸時代に由比では食べられていなかったものが現在の由比で食べる事が出来ます。
何だと思いますか?
答えは、桜えびです!
桜えび漁の歴史は比較的浅く明治の中頃に始まったそうです。
アジ漁で浮き樽を忘れて沖合に出た漁師が浮き樽なしに網を仕掛けたところ深く沈んだ網に大量の小えびが掛かっていたと言うのが始まりだそうです。
ですから江戸時代に由比の人達は桜えびを食べていなかったと言う事になりますね。
桜えびは東京湾・相模灘・五島列島沖に分布していますが漁獲対象となっている漁場は駿河湾のみとの事。よって日本国内の桜えびの水揚げ量は100%駿河湾産となっています。
その駿河湾産の桜えびが水揚げされる漁港の1つが由比漁港です。↑由比漁港
このような理由から現在、桜えびは由比を代表する特産品となっています。↑桜えびのモニュメント(由比漁港)
かき揚げ、炊き込みご飯、あるいは生でワサビ醤油をつけて食べる桜えびは最高に美味しいですよ。
由比の町へ訪問する機会を見つけて美味しい桜えびの料理を是非堪能して下さい!↑桜えびの料理
さて、再び江戸時代に話を戻しましょう。
由比宿と興津宿(おきつしゅく)の間には山の斜面がそのまま海へ落ち込む急峻な場所があります。その為、当時の旅人にとっては海岸線を通行する際、波の合間を抜けて通り抜けねばならない険路となっていました。
この事からこの海岸線は新潟県と富山県の県境に位置する親不知(おやしらず)と並び称され、東海道の三大難所として流布されていました。
現在この地は東名高速道路、国道1号線、JR東海道本線が交差する交通の要所となっています。
この難所を迂回する為の迂回路として設けられたのが薩埵峠(さったとうげ)です。
ここから見る由比方面の景色はある意味日本一の景色と言えます。
日本一高い山。
富士山の標高は3,776m。
その富士山の眼前に広がるのは日本の湾の中で一番深い駿河湾。
最深部は2,500mに達します。
この2つの日本一を足すと約6,200m。
高低差もまた日本一と言えるでしょう。
美しい山の稜線と青い海原が紡ぎ出す景色は誰が見ても美しいと感じるのではないでしょうか?
歌川広重も「東海道五十三次・由比」のタイトルで浮世絵に残しています。↑薩埵峠からの眺め↑歌川広重作「東海道五十三次・由比」(出典:ウィキペディア)
ここで薩埵峠の名前の由来を紹介しましょう。
薩埵は仏教の専門用語である菩薩薩埵(ぼさつさった)を略したもので、命ある全ての生き物という意味があるそうです。
鎌倉時代に駿河湾で漁をしていたところ網に薩埵地蔵が掛かり、このお地蔵様を豊漁と航海の安全、及び結界として周辺地域に悪魔や病気が入らないことを願い山中に祀った事から薩埵峠と呼ばれるようになったと言う事です。
駿河湾で網に掛かった桜えびは特産品となり、薩埵地蔵は薩埵峠の語源となりその薩埵峠は絶景を提供する事でこの地域に観光客を呼び寄せています。
海は食べ物、美しい景色、お地蔵様?など人間にとって重要なものを授けてくれます。私たちの子孫も同じように恩恵を受ける事が出来るように海を大切にしましょう。
由比の町、薩埵峠に訪れた際はそん事を思いながら楽しんで下さい!