加治屋町で実施された郷中教育が日本を変えた

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国家の根幹を成すものの1つに教育がある。

それは今も昔も変わらない。

鎌倉時代から薩摩(現鹿児島県)の地を治め続けてきた島津氏。その島津氏の中興の祖と呼ばれ近世島津氏の基礎を築いた人物が日新斎(じっしんさい)の異名を持つ島津忠良(しまづただよし)である。

仏教・朱子学・政治学を学び教養を兼ね備えていた彼は5年余りの歳月をかけて「日新公いろは歌」を完成させた。

このいろは歌は普通のいろは歌とは異なる。

一例を見てみよう。

「い」-いにしへの道を聞きても唱へても わが行に せずばかひなし(現代語訳:昔の賢者の立派な教えや学問を口に唱えるだけでは役に立たない。実践・実行することが最も大事である)

人が生きていく上で重要な教えである。

このようないろは歌を作った忠良に「看経所にその名を録し島津氏に無くてはならない四人の一人として残そう」とまで評された家臣がいる。※看経=声を出して経文を読むこと。読経。誦経。

新納忠元(にいろただもと)だ。

忠元も和歌や連歌、漢詩に通じ茶の湯も嗜むといった教養を兼ね備えた人物であった。その彼が唱えたものに「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」がある。

この二才咄格式定目は

「咄相中何色によらず、入魂に申合わせ候儀肝要たるべき事(現代語訳:何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である)」

などで構成されている。

彼もまた重要な教えを残したのである。

さて、忠良の孫にあたる島津義弘(しまづよしひろ)が島津氏の当主だった時代、豊臣秀吉により天下は統一された。

この時代、武功のあった大名に領地を与える事で君主はその権威を保っていた。

天下統一を果たし日本に戦は無く、与える領地もない。

そこで秀吉は朝鮮半島に目を向け出兵する。

いわゆる文禄の役(1592年)、慶長の役(1597年)である。

島津氏も当主の義弘が1万5千、あるいは2万とも言われる兵を伴いこれに参戦した。

これだけの人数が出払ってしまうと、領地に残されているのは年寄り、女性、子供がほとんどだ。

ほかっておけば小さな子供は好き勝手な事をしてしまうだろう。そこで、不在の男性に代わって年寄り、女性、あるいは年上の子供が年下の子供に日新公いろは歌と二才咄格式定目を使って教育をしたと思われる。

この時の教育方法が郷中教育(ごじゅうきょういく)と呼ばれる薩摩藩の独特の教育システムへと発展した。

郷中とは町単位の組織を指す。郷中教育の最大の特徴は郷中単位で先輩が後輩を指導し、同輩はお互いに助け合い学び合うと言う教師不在の教育システムである事だ。

郷中では日新公いろは歌と二才咄格式定目を教科書とした。

幕末、鹿児島城(鶴丸城)下には数十戸単位で30個近くの郷中が存在していたそうだ。

その1つ加治屋町(かじやちょう)は城から最も遠くに位置していたことから武士の中でも下級にあたる武士の居住地となっていた。

この地で郷中教育によって育てられた子供達は偉大な人物へと成長した。

西郷隆盛、大久保利通、西郷従道(さいごうつぐみち)、東郷平八郎、大山巌(おおやまいわお)、山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ)らである。

彼らはご存知の通り、徳川幕府を倒し、明治維新を成功させ日露戦争で勝利する事で日本を一気に近代国家へと変貌させた。

加治屋町はおよそ500m四方に囲まれた狭い範囲内にある。この限られた土地で行われた教育が日本を近代国家へと導いた事を歴史小説家の司馬遼太郎氏が端的な言葉で述べている。

いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである

少々大袈裟な感もあるがその通りと思う。

現在の加治屋町には「維新ふるさと館」「歴史ロード“維新ふるさとの道”」を中心に前述の薩摩藩士に関わる史跡が点在している。加治屋町は言わば幕末に活躍した薩摩藩士の博物館のようなものだ。鹿児島を訪れたら寄って頂きたい場所である。

↑維新ふるさと館↑歴史ロード“維新ふるさとの道”↑西郷隆盛生誕の地↑大久保利通生い立ちの地↑二つ家(西郷隆盛ら下級武士の住居形態)

最後に少し余談をして今回の記事を締めたいと思う。

幕末、幕府側の雄藩として薩摩藩と対峙したのが会津藩である。

会津藩には(じゅう)と呼ばれる教育システムがある。什は郷中教育と類似したシステムであり会津藩の藩校である日新館(にっしんかん)で実践され戊辰戦争で活躍した白虎隊やその後に活躍する人材を数多く輩出している。

「郷中教育」と「什」。

「日新公いろは歌」と「日新館」

もしかしたら「じゅう」とか「日新」には教育に必要な言霊が潜んでいるのかもしれない。

これは科学的な根拠から掛け離れているが、いずれにしても勝敗は別にして幕末に活躍した両藩の教育方法は日本と言う国家の行く末を担っていた事に変わりはない。

郷中教育の精神は現代にも通用する。

豊かな日本であり続けるヒントはここにあるのではないだろうか?

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