イスタンブールで触れる事の出来る日露戦争の一端

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雑踏が生み出す活気はこの街の熱量を示しているかのようである。

ビザンツ帝国、オスマン帝国合わせて1,500年もの間、その中心都市として栄えて来た街は現在もトルコ共和国最大の都市として威厳を保ち続けている。

人口約1,400万を擁するイスタンブールだ。

↑イスタンブール

ヨーロッパとアジアの架け橋

世界で唯一この都市だけが使用を許されているフレーズである。

イスタンブールを東西に分け隔てているボスポラス海峡の東岸はアジアの最西端。西岸はヨーロッパの最東端となっているからだ。↑ボスポラス海峡

街のあちらこちらに巨大なモスクが点在している。

初めて間近で見る日本人は圧倒されるだろう。少なくとも私は圧倒されてしまった。

↑スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)

↑アヤソフィア

現代の日本人でもそうなのだから明治時代に生きた人達が見たらその驚きは更に大きかったに違いない。

1891年(明治24年)1月2日。日本海軍の練習艦「比叡(ひえい)」「金剛(こんごう)」がイスタンブールに入港した。

何の目的だったのだろう?

その理由はエルトゥールル号遭難事件に起因する。

この事件に纏わるトルコと日本の関係については概知の方も多くいるだろうがご存知のない方の為に概要を説明したい。

1890年(明治23年)9月16日。乗組員609名を乗せたオスマン帝国(現トルコ共和国)の軍艦エルトゥールル号が接近中の台風の影響を受け紀伊大島(きいおおしま:和歌山県)の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)に連なる岩礁に激突してしまった。

その時、大島村(現在の和歌山県串本町)の住民達が総出で救助と生存者の介抱に当たり69名の命を救った。

それから95年後の1985年(昭和60年)に事件は起きる。

イラン・イラク戦争の最中、イラク軍のイランへの攻撃が激しくなりイランの首都テヘランに駐在する外国人は出国を急がされる事となった。

日本大使館も在住の日本人に出国勧告を出したが当時イランと日本の間には定期航空便は就航していなかった為、他国の定期便に頼るしか方法がなかった。

しかし、どの国も自国民の出国を優先するので当然日本人の出国は遅れる事になる。

日本大使館は日本政府に自衛隊の救援機派遣を要請したが当時の法律では許可する事が出来なかった。

その一方で日本航空がジャンボ機一機を準備していた。しかし、これもイラン・イラクの双方から日航機の攻撃をしないと言う確約が取れなかった為、実行されなかった。

そこで日本大使館はトルコ大使館を通してトルコ政府に救護機を飛ばすように嘆願したのである。

当時のトルコのオザル首相は「わかりました。後でまた連絡します。我々はあなたがた日本人に恩返しをしなければなりません」と答えた。

トルコ人と言うのは何と義理がたいのだろう。

かくして日本人は無事出国する事が出来たのである。

以上がエルトゥールル号遭難事件に纏わる話である。

この話は2015年に「海難1890」と言うタイトルで映画化されている。時間に余裕のある方は是非観て頂きたい。

時代を明治に戻そう。

日本海軍の比叡・金剛はエルトゥールル号の遭難で助かった乗船員をオスマン(トルコ)に送り届ける為にイスタンブールへ来たのだ。

この事実を掘り込んで行くと当時の日本を囲む世界情勢が深く関連している事が分かる。

この時代、西欧列強諸国は植民地化を進め自国の領土を拡大していた。ロシアもその触手を東へ伸ばしていた。これは日本にとっては大きな脅威である。

そのような中、ロシアからエルトゥールル号の生存者をオスマン(トルコ)まで送り届けようとの申し入があった。

ここにはロシアの思惑があったと推測出来る。

日本の港にロシアの軍艦を入港させる事でその軍事力を誇示したかったのであろう。また、ロシアと敵対関係にあったオスマン(トルコ)の港に軍艦の乗り入れをする事が可能となる。もしかしたら攻撃をする事も考えていたかもしれない。

日本政府はそれを見透かしロシアの申し入れを受け入れずに比叡・金剛を派遣したのである。

比叡・金剛の乗組員は熱烈に歓迎され1ヶ月あまり滞在して帰国の途についた。

ちなみに比叡には後に日露戦争の日本海海戦で旗艦「三笠」の参謀として日本海軍を勝利に導いた立役者の一人である秋山真之(あきやまさねゆき)も乗組員の一人として乗船していた。

話はまだ続く。

実は、日本政府の行動とは別に民間人の間でもオスマン(トルコ)に対する支援がされたのだ。

比叡にはエルトゥールル号の遭難事故を受け義捐金を呼びかけた新聞社「時事新報」の記者・野田正太郎(のだしょうたろう)が同乗していた。

彼は義援金を渡した後もイスタンブールに2年間滞在し、オスマン(トルコ)とその周辺の情報を日本に流し続けた。

もう一人いる。

当時の実業家であり茶人でもあった山田宗有(やまだそうゆう)である。

彼は日本新聞社に働きかけて義捐金の募金運動を起こすと共に、自らも日本中で演説会をして回り現在の価値で1億円相当を集めた。

この義捐金を持って自らオスマン(トルコ)に渡った。

山田もまた熱烈な歓迎を受け、時の皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にも恵まれた。この時、彼が皇帝に献上した甲冑や大刀は今も尚トプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。

↑トプカプ宮殿

山田は野田の後任と言う形でオスマン(トルコ)に滞在する事になるが、結局のところ数度の一時帰国を挟みながらも合計20年近くもオスマン(トルコ)に滞在した。

前述したボスポラス海峡は黒海からマルマラ海、エーゲ海を経てと外洋へとつながっている。↑ボスポラス海峡

ロシアは黒海に艦隊を擁していたが条約により黒海より外へ出る事が出来なかった。

日露戦争の最中、日本政府はトルコに滞在中の山田にボスポラス海峡の監視を依頼した。

山田は監視場所として選んだガラタ塔から条約を無視して貨物船を装わせたロシア軍艦3隻がボスポラス海峡を通過したのを確認した。この情報を日本政府に流している。↑ガラタ塔(写真中央やや右の塔)とイスタンブールの街並み

この様な事も日露戦争で日本が勝利した理由に含まれていると言えるだろう。

ここには書ききれないが当時の日本人は日露戦争前も、戦争中もあらゆるところに最大限の力を注いだ。

日本は日露戦争で圧倒的な資金力・軍事力を持つロシアに勝利する事が出来た。

どんなに勝算の見込みがない事でも、どうでも良いと思われる些細な事に手を抜かず徹底的に対応したらそこに勝機を見出す事が出来るかもしれない。

イスタンブールに訪問する機会が出来たら当時の日本人の気概も感じて来て頂きたい。

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