急な傾斜は一直線に空へ向かって突き進み人工の山を造り上げている。
エジプトのクフ王のピラミッドである。
その巨大さは同じ人工物である超高層ビルとは全く異なる威圧感を持っている。
理由はこの巨大建造物が遥か昔に建造されたと言う畏怖の念からだろう。
世界最大級の大きさを誇るクフ王のピラミッドは高さ138.8m(建設当時146.6m)、一辺の長さ230.37m、容積約235.2万㎥、一つの石の重さ平均2.5t、計算上では270万〜280万個積み上げられているとされ、紀元前2560年頃から20年近くかけて建設されたと言われる。
クフ王のピラミッドには多くの謎が残されている。
例えばピラミッドを真上から見た場合、四辺が東西南北に誤差100分の5度くらいの精度で垂直に交わっているそうだ。2.5tクラスの石を100分の5度の精度で並べるのは現在の建築技術を持ってしても不可能とされている。
このように謎に包まれたピラミッドではあるがここでは主旨から外れてしまうので他に譲る事とする。
江戸時代、日本の封建制度の中にも士農工商と言う階層ピラミッドが存在していた。
その頂点に位置付けられていた侍。
その侍がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の連合艦隊に戦いを挑み完膚なきまでに叩きのめされたのが1863年・1864年の前後2回に渡って繰り広げられた下関戦争においてである。
下関戦争における長府の前田砲台の情景が一枚の写真として残されている。
(出典:山口県ホームページ(http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/))
この写真が残存する幕末から明治維新にかけての「戦争の場面」を撮った唯一の写真だそうだ。
写真を撮影したのはイギリス生まれイタリアの写真家であるフェリス・ベアトである。
さて、ここにもう一枚貴重な写真が残されている。
巨大なクフ王のピラミッドの横に平臥しているスフィンクスと日本の歴史の中で重要な役割を果たして来た侍との異色の組み合わせだ。
(出典:Wikipedia)
写真の左下に「A.Beato」と書かれている。
この写真を撮影したのはフェリス・ベアトの兄アントニオ・ベアトとされている。
なぜ侍がスフィンクスと一緒に写っているのだろうか?
写真が撮影されたのは1864年である。奇しくも弟のフェリスが残した下関戦争の写真と同じ年に撮影された事になる。
幕末の動乱期に撮影されたベアト兄弟が残した2枚の写真。。。。。
下関戦争の写真が侍の世が終わりを告げようとしていることを暗示している写真であるならばスフィンクスと侍の写真は日本の新しい時代の幕開けを告げる予兆の写真と言えるかもしれない。
フィンクスと一緒に写っている侍は池田長発(いけだながおき)率いる第二次遣欧使節団のメンバーである。
彼らの目的は一旦開港した横浜港を再び鎖港する事をヨーロッパ諸国に認めてもらうための交渉であった。その交渉のためフランスへ向かう道中にカイロで滞在した際に写されたのがスフィンクスと侍の写真である。
交渉の結果はどうだったのか?
横浜港の鎖港を認めさせるために意気込んでフランスに足を踏み入れた彼らだったが、ヨーロッパの近代文明を目の当たりにした遣欧使節団一行は開国派となり日本へ帰国した。団員の多くは明治維新後に角界で活躍し日本の近代化に貢献している。
第二次遣欧使節団の一部の侍はピラミッドに登頂したようである。
↑スフィンクスとカフラー王のピラミッド
士農工商という階層ピラミッドの頂点にいた侍がクフ王のピラミッドの登頂後に開国派となり侍の世を終わらせる一役を担ったというのもなんだか皮肉めいたものがある。そう言った視点から見るとスフィンクスと侍の写真はやはり日本の新しい時代の幕開けを告げる写真と言えるだろう。
ところで彼らがスフィンクスと一緒に写真を撮った頃のエジプトはトルコの植民地として占領下に置かれていた。そのため鉄道が引かれ農地の灌漑施設も当時の日本より進んでいた。
しかしそれから200年近く経った今、日本のあらゆる技術は世界の最先端を走っている。
2016年10月15日、日本の最新デジタル技術を活用しピラミッドの内部構造を調べている研究チームがクフ王のピラミッドに隠れた空間が存在することを確認したと発表した。
↑カフラー王のピラミッド(手前)とクフ王のピラミッド(奥)
日本より進んでいた頃のエジプトを見た第二次遣欧使節団のメンバーもこの二ユースを聞いたらさぞかし喜ぶであろう。