その姿はまるで竜宮城!
なぜこのような造りになったのでしょうか?
関門海峡のすぐ横に安徳天皇や平家一門が祀られた赤間神宮(あかまじんぐう:山口県下関市)はあります。
平清盛は平家一門の基盤を盤石にするため娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に嫁がせます。徳子と高倉天皇の間に授けられた子供が安徳天皇です。
しかしながらこの施策も虚しく平家は源平合戦によって敗戦を重ねていきます。
そして最終決戦の壇ノ浦の戦いで敗戦が決定的になると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、安徳天皇を抱きかかえ入水。歴代最年少のわずか8歳でその生涯を終えます。
↑関門橋と壇ノ浦
「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」
二位尼が入水する際に安徳天皇に対して詠んだと言われる歌です。「海の底にも都はあります」と言う意味です。
太平洋戦争で焼失した赤間神宮を再建する際にこの歌をイメージしたため赤間神宮は竜宮城のような造りとなりました。
ちなみに赤間神宮はかつて阿弥陀寺と称し安徳天皇の霊を慰めるお寺でしたが明治維新後の神仏分離令により阿弥陀寺は廃され天皇社と改称されました。赤間神宮と言う名称になったのは昭和に入ってからのことです。
話は変わりますが、例えば清水寺に由来する有名なことわざに「清水の舞台から飛び降りる」があります。実は以外と知られていないのですが「堂々巡り」と言うことわざもも清水寺に由来しています。清水の舞台が有名なだけに「堂々巡り」が陰に隠れてしまった事例ですね。
赤間神宮にも同様に有名な壇ノ浦の戦いにまつわる話の陰に隠れてしまいあまり表に出て来ない話がいくつかあります。
①耳なし芳一(みみなしほういち):
「耳なし芳一」は小泉八雲の怪談に出てくる話ですが、その舞台がこの阿弥陀寺(赤間神宮)です。境内には芳一堂が建立されています。
②白石正一郎(しらいししょういちろう):
白石正一郎は木材、米やたばこ、その他、塩、酒、茶、反物などを扱った長州藩の豪商で高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した人物です。高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自身も入隊して奇兵隊の会計方を務めました。
この白石正一郎は明治維新後に赤間神宮の2代目宮司となっています。
③朝鮮通信使上陸淹留之地(ちょうせんつうしんしじょうりくえんりゅうのち)※淹留=長く滞在すること:
朝鮮通信使は室町時代から江戸時代にかけて朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団です。
豊臣秀吉の朝鮮出兵により一時決裂していた交流ですが徳川家康や対馬藩の努力によって両国の関係は修復され、その後12回来日しています。通信使が日本への訪問に際し、対馬、壱岐、藍島を経て、日本本土最初の寄港地となっていたのが下関でした。
そして阿弥陀寺(赤間神宮)が客館として利用されていたそうです。これらの事を記念して赤間神宮の前にある阿弥陀寺公園には「朝鮮通信使上陸淹留之地」の碑が建立されています。
2015年5月現在、朝鮮通信使をユネスコの記憶遺産に登録する活動が日韓共同でなされています。もし登録されれば、この地も一躍有名になるかも知れませんね(^^)
とかく人は話題となる事柄に目を向けがちですがその陰に隠れている話題にも注意を払うと意外な発見が出来ると言うことですね♪
さて最後に再び安徳天皇に関する話です。
日本のアマチュア天文家の故浦田武(うらた たけし)さんは発見した小惑星に「安徳」と名前を付けています。
安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり全国各地に伝承地があります。でも最終的には星になったと言う事でしょうかね(^^)
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