本郷台地の東側から台東区を見渡す位置に鎮座する湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう:文京区)。
↑湯島天満宮から台東区方面を見た眺め
湯島天満宮はかつて湯島神社と称されていましたが2000年(平成12年)に湯島天満宮に改称。亀戸天神社(かめいどてんじんしゃ:江東区)・谷保天満宮(やぼてんまんぐう:国立市)と並び、関東三大天神の一つに数えられています。
その境内には奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)と呼ばれる聞き慣れない名前の石柱が立っています。
↑奇縁氷人石
これは迷子石と呼ばれ江戸時代に迷子や身の回りの落し物を探す手段として利用された石柱です。石柱の片側には迷子や落し物の名前等を書いた紙を貼り、反対側に情報を持っている人がその情報を書いた紙を貼ると言う使われ方をしていました。
いわば伝言板みたいな物ですね。
それだけ湯島天満宮には人の賑わいがあったと言うことではないでしょうか?
人が集まればイベントも開催しやすくなります。
だからでしょう、湯島天満宮では講談が催されていたようです。
講談とは軍記物や武勇伝などを主に歴史にちなんだ読み物を高座(こうざ:説教・演説などをする人のために一段高く設けた席)におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつです。
講談は江戸時代中頃まで街頭で聴衆と同じ目線の高さで演じられていましたが湯島天満宮の境内で徳川家康の偉業を語る時その尊厳を表す為に高座が設けられたと言う事です。
それ故、湯島天満宮は講談高座発祥の地とされています。
しかし、なぜ湯島天満宮に人が集まるようになったのでしょうか?
その理由の一つは富籤(とみくじ)にあると言えるかもしれません。
富籤とは宝くじの事です。
江戸時代、富籤は庶民の間で熱狂的な人気を博した為、幕府は度々禁止令を出したそうです。
しかし、寺社にだけは修復費用調達の手段として富籤の発売が許可されていました。これは天下御免の富籤「御免富(ごめんとみ)」と呼ばれていたそうです。
そして、その中でも有名だった寺社の富籤が「江戸の三富」と称される谷中の感応寺(かんのうじ)、目黒の瀧泉寺(りゅうせんじ)、そして湯島天満宮の富籤でした。
江戸の三大富籤の一つともなれば人も集まって来ますよね。
ところで、湯島天満宮は菅原道真(すがわらみちざね)が祀られる学問の神様です。
↑天満宮のシンボル牛の像
学問は努力によって身につくものであり運頼みの富籤(宝くじ)とは相反するものですよね?
なぜ、湯島天満宮は江戸の三富に加えられたのでしょうか?
その理由を探ってみましょう。
湯島天満宮は社伝によると雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられています。その後、南北朝時代の1355年(正平10年)に住民の請願により菅原道真を勧請して合祀したと言う事です。
つまり元々は天之手力雄命の一神が祀られていた神社となります。
では、この天之手力雄命とはどのような神様なのでしょうか?
「古事記」には天手力男神、「日本書紀」には天手力雄神と表記されており「天の手の力の強い男神」つまり腕力・筋力を象徴する神であることがうかがえます。
この事から現代では力の神、スポーツの神として信仰されています。
そうです天之手力雄命は勝負の神様なのです。
だから江戸の三富にも選ばれたのでしょう。
ちなみに、有名な天岩戸(あまのいわと)の神話の中で岩戸隠れの際に岩戸から顔をのぞかせた天照大神(あまてらすおおみかみ)を引きずり出したのが天之手力雄命です。それにより世界に明るさが戻理ました。
光(運)を力ずくで導く神様と言えますね(^^;
最後に湯島天満宮の運の強さが現在まで引き継がれている事を示してこのレポートを締めたいと思います。
東京23区の神社仏閣は江戸から昭和にかけて天災や戦火等々によってその殆どが場所を移動しています。ところが湯島天満宮だけは今も尚、同じ場所に鎮座し続けています。
まさに湯島天満宮はパワースポットと言えるでしょう。
学問とスポーツの文武両道を司る湯島天満宮に参拝して願い事を引き寄せましょう!