緑の木々は周囲の景色を遮断し、場の変化の予兆を演出しているかのようである。
なだらかな坂道を登りきったところに突如としてそれは現れる。
西洋式の見事な建造物である。
クリーム色に覆われた容姿は時間を逆流させ空間を一瞬にして海外に飛ばしてしまったかの如く感じさせてくれる。
この建物は明治政府の招聘によって来日したロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルによって設計され1896年(明治29年)に竣工したものである。
ジョサイア・コンドルは鹿鳴館や上野博物館などの設計も手掛けている。また東京大学工学部建築学科の前身である工部大学校造家学科の初代教師として教鞭を執り東京駅の設計をした辰野金吾(たつのきんご)や赤坂離宮の設計をした片山東熊(かたやまとうくま)らを育てている。
さて、洋館の中に足を踏み入れると更に時間と空間の変化は加速される。
ジャコビアン様式(イギリスのジェームス1世時代に発展したとされる美術作品、建築、家具の様式を指す。「ジャコビアン」はジェームス1世のラテン語「Jacobus」に由来している)を基調とした装飾は訪れた人を日常から解き放してくれるだろう。
↑ジャコビアン様式の館内
ところが洋式の空間に慣れた頃に純和風の空間へと誘われる。洋館と結合して和館が併設されているのである。
↑和館内
書院造りを基調にした建物の外には日本庭園が配されている。
が、更にその向こうには洋式の芝庭が広がっているのである。
和と洋のギャップは簡単に埋まるものではないがそのコラボレーションは和洋折衷と言う別なものを生み出している。
上記に紹介したものは全て建物と庭園が公園として整備された旧岩崎邸庭園のものである。
岩崎邸は明治時代に日本の経済発展の牽引役を担って来た三菱グループの前身である三菱財閥の創始者であり初代総帥でもある岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の長男・岩崎久弥(いわさきひさや)の本邸として造られたものである。
久弥は三菱財閥の3代目総帥として麒麟麦酒(キリンビール)や小岩井農場の創業にも深く関わった人物である。
明治時代。それは日本が海外の列強国に文明国であることを認めさせるために官民が必死になって西洋式の建造物を取り入れて行った時代でもある。
このような時代背景の中で和洋折衷という独特の様式が出来上がった。
旧岩崎邸の洋館も御多分に洩れず外国人客を受け入れるための建物であり生活の場は和館だった。
さて和洋折衷様式が色濃く残る旧岩崎邸庭園であるが、その歴史も和洋折衷と言えるかもしれない。以下その歴史を簡単に紹介することとする。
時代は戦国時代まで遡る。
小田原征伐で関東を手中に収めた豊臣秀吉は徳川家康に江戸への移封を命じた。
当時は何もない湿原地帯だった土地に城を構えざるを得なかった家康は徳川四天王と呼ばれていた井伊直政(いいなおまさ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、酒井忠次(さかいただつぐ)らに命じ防衛上重要な場所に屋敷を構えさせた。
現在、旧岩崎邸庭園がある土地は奥州に睨みを効かせる場所として榊原康政の屋敷が建てられたのである。
以来、明治維新を迎えるまでの280年間、この土地は榊原家の大名屋敷が存在していた。
旧岩崎邸の庭園は大名庭園の形式を一部踏襲していると言われる。
明治維新以降は薩摩藩士・桐野利秋(きりのとしあき)の所有となり、その後舞鶴藩主・牧野 弼成(まきの すけしげ)の所有を経て岩崎家の所有となった。
第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)には岩崎家が居住したままGHQに接収されGHQ直轄の秘密諜報機関であるキャノン機関の本部が置かれた。
1948年(昭和23年)に岩崎家は転居し、1953年(昭和28年)日本政府へ返還され、最高裁判所司法研修所に利用されるなどして最終的に東京都へ移管され現在に至っている。
因みに最初の土地の所有者であった榊原康政は家康から南蛮胴(なんばんどう)を与えられている。
南蛮胴とは西洋式の胴鎧を日本風に改造した鎧を指す。もしくはそれ模して造られた鎧のことを指す。
旧岩崎邸庭園が和洋折衷となったのは最初からなるべくしてなったのかもしれない。
グローバル化が進み、交通機関が発達し、インターネットで海外の情報を際限なく入手出来る現代においては和洋折衷により新しいものが次々に生まれてくるであろう。
これを止めることは不可能に近い。しかし、一つだけ忘れて欲しくないことがある「和洋折衷」の様式を取り込む際に常に「和魂洋才」のエッセンスだけは加えて頂きたい。
岩崎家が率いた三菱財閥もそのような気概を持って日本の未来を創り上げて来たに違いない。