広島城の別称が広島を代表する○○に採用されています

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広島城

「戦国最高の知将」と呼ばれる中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)の孫に当たるのが毛利輝元(もうりてるもと)。豊臣政権下では五大老の一人として任じられています。その輝元が広島城を築城しています。

しかし、築城から約10年後の関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就いた輝元は敗軍の将となり、その責を問われ萩(山口県)へ移されることに。

輝元に代わって入城したのが東軍側についた福島正則(ふくしままさのり)です。しかし、正則は元々が豊臣家恩顧の大名であった為、徳川幕府から常に睨まれていました。

幕府が大名の軍事力を抑えて支配力を強めるため武家諸法度で城の新築を禁止し、幕府の許可なくして修理をしてはならないと抑え込む中、正則は無断で城を修築したとして、信濃(しなの)国川中島(長野県)へ移封されてしまいます。

その後を継いで城主となったのが、元和5年(1619年)に和歌山から移ってきた浅野長晟(ながあきら)です。以後、明治2年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)までの250年間12代にわたって浅野氏が城主を勤めました。

明治維新後の明治6年(1873年)には陸軍の鎮台(ちんだい=日本陸軍の編成単位)が置かれ日清戦争(1894年~95年)の時には本丸に大本営が設けられるという稀有な歴史を持っています。

広島城は名古屋城、岡山城と共に日本三大平城の一つとも言われ、現在は原爆の破壊から復活した広島の街を見守る存在としてその雄大な容姿をたたえています。

平城とは文字通り平地に建てられたお城の事です。平らな土地に山の様な城が築かれている様は、なにごとも無から有を創り出す可能性を持ち合わせている事を感じさせてくれます。

ところで広島城には「鯉城(りじょう)」と言う別称が付いています。広島城があった一帯が昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれていたからというのが一般的な理由とされているようです。

鯉は「鯉の滝登り」で知られているように出世を意味するめでたい魚とされています。ちなみに登竜門と言う言葉は中国の黄河の上流にある龍門の急流を登り切ると、鯉は龍になるといわれ、ここから登竜門と名づけられたそうです。

そんな鯉の名前を使っているもっとも有名な広島名産???って何だかご存知ですか?

そうですプロ野球チームの広島東洋カープ(carp=鯉)です。

広島東洋カープの名の由来は「鯉が縁起のいい魚であること」「広島城は鯉城と呼ばれているから」
だそうです。

そしてカープが毎年シーズン前に必勝祈願へ訪れる場所が広島城址内にある広島護国神社です。

カープファンの人もそうでない人も広島へ行ったら鯉が滝を登るように縁起の良い広島城へ登ってみましょう!

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