白い壁に映える赤レンガの煙突。
その赤に呼応するかのように赤瓦の屋根が時折り視界に飛び込んで来ます。
行政指導によって保たれる事が多い街の景観ですが、この街の赤瓦は自主的に保持されているそうです。
そんな街の風景の中心となっているのが酒蔵通りです!
西条(東広島)は灘(神戸)、伏見(京都)と並ぶ日本三大銘醸地の一つとされています。
お酒好きの人にとっては魅力的な街ですね(^^)
清酒の成分の約80%は水だそうです。
そうなると水は清酒の生命線。水の善し悪しによって出来上がりの善し悪しも左右されてしまうと云う事になります。
ではどんな水が良いのでしょうか?
清酒は麹を発酵させて造ります。
つまり、麹の働きを助けてくれるカルシウム、マグネシウムなどのミネラルが十分にあることが良い水の条件となります。
ミネラルの多い水。。。。。
すなわち硬水が清酒にとって適した水と云うことになります。
ところが西条の水はミネラルの少ない軟水。。。。。
どうして西条が日本三大銘醸地の一つと呼ばれるまでになったのでしょうか?
そこには一人の人物が大きく関わっています。
三浦仙三郎(みうらせんさぶろう)です。
彼は1876年(明治9年)、33歳の時に酒造業を始めます。
ところが灘に赴き技術の習得に努めたものの酒は腐造になるなど、多大な損失を出し失敗に終ります。
しかしある時、転機が訪れます。
1893年(明治26年)、京都の酒造家・大八木庄太郎から軟水は酒造に向かないことを知らされたのです。
仙三郎はその後、醸造方法の研究と実験を繰り返し1897年(明治30年)に「軟水醸造法」を完成させます。
そしてこの技法を広く知れ渡らせるべく「改醸法実践録」という冊子をまとめ上げ杜氏の養成に努めます。
自分が苦労して考案した醸造法を惜しげも無く公開したことによって西条の清酒の品質は底上げされ、1907年(明治40年)に開かれた全国清酒品評会や1911年(明治44年)に始まった全国新酒鑑評会などで西条の清酒の評価は上位を占めたそうです。
これにより無名だった西条の清酒が当時圧倒的なブランド力を誇示していた灘の清酒と肩を並べるほどとなったのです。
しかも仙三郎の功績はこれだけに留まりません。
西条の清酒が全国に知れ渡ると、軟水の多い日本各地で清酒造りが盛んになって行ったそうです。
現代の私たちが日本各地で美味しい地酒を飲むことが出来るのも仙三郎が惜しげも無く技法を公開した事にあると言えるでしょう。
市場が拡大されることによって最終的に自分にとっても得になる。これこそ正に共存共栄の精神と言えますね。
ところが、まだ他にも私達が仙三郎から恩恵を受けているものがあります。
吟醸酒です。
彼の技法が吟醸酒を生み出すベースの一つになったと言われています。
ここまで来ると清酒ファンにとっては神様のような人ですね(^^)
このように仙三郎の功績により進化した西条の清酒ですが、その起源は意外なところにあります。
時はずっと遡り関ヶ原の戦い(1600年)。
西軍の指揮者・石田三成に三顧の礼をもって迎えられ側近として仕えていた島左近(しまさこん)はこの戦いで討ち死にします。
しかし彼を父親に持つ彦太郎は母親と共に落ちのび、西条の地で足を止めることに。
彦太郎の孫である六郎兵衛は1675年に酒造りを始め代々受け継がれて行きます。
現代も島家が社長を引き継ぐ蔵元。それが広島で最も古い歴史を持つ白牡丹酒造(はくぼたんしゅぞう)さんです。
関ヶ原の戦いという歴史の大舞台で活躍した武将に起源を持つ西条の酒造りは洗練され続け、現在では9社の清酒が2007年(平成19年)日本酒で初めて「Japanブランド育成支援事業」の採択を受けるに至っています。
西条を訪問した際は意外な起源を持ち中興の祖とも言える三浦仙三郎によってレベルアップした美味しい清酒を堪能しましょう!