松永弾正(まつながだんじょう)が畿内の覇権を争う中で東大寺は焼き討ちにされてしまいます。豊臣秀吉は東大寺に代わる大仏をお祀りするお寺を創建します。それが方広寺(ほうこうじ:京都市東山区)です。
当時の大仏は地震や火災等により倒壊と建造が繰り返され、寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失して以後、同様の規模のものは再建されていません。
かつての方広寺の敷地には三十三間堂も含まれておりその南限を意味するため三十三間堂横に築造されたのが秀吉によって寄進された「太閤塀」と呼ばれる築地塀です。
太閤塀は信長塀(愛知県:熱田神宮)、大練塀(兵庫県:西宮神宮)と並び日本三大土塀の一つです!余談ですが今回のレポートで日本三大土塀を制覇する事が出来ました!
そして太閤塀に連なるように建てられているのが南大門。この南大門辺りで日本で有名な男女が出会ったとされています。
さて、誰でしょう?
元治元年(1864年)5月頃、坂本龍馬はやがてその妻となるお龍(りょう)と南大門辺りで初めて出会いました。
三十三間堂の南側の大仏南門通にあった河原屋五兵衛の隠居所には土佐亡命志士たちが隠れ住んでおり、その中には当時京都を中心に活動していた坂本龍馬、中岡慎太郎も含まれていました。
その隠居所に賄いとして住み込みで働いていたのがお龍の母・貞と末娘の君枝(起美)です。そして、お龍もその近くで働いていた為、たびたび母を訪ねていました。
これが龍馬とお龍の出会いへとつながります。
三十三間堂の南側にこんな話が有ったとはビックリです。
どこで誰とどのような形で出会うのか予測がつかないものですね。出会いには色々な出会いがあると思います。どんな出会いも意味が有っての事だと思います。出会いは大切にしたいですね。
三十三間堂は有名ですが、太閤塀、南大門まで周る人は少ないのではないでしょうか。特に南大門は塀の内側からでは全貌を見る事が出来ません。三十三間堂に訪れた際は是非、龍馬とお龍が出会ったと言われる太閤塀、南大門周辺にも足を運んで下さい!