コバルトブルーの水面に大小様々な島が散りばめられた様は宝石箱を覗いた気分になります。
芸予諸島の東側では本州から四国に向かいしまなみ海道が島々を縫い合わせています。
↑しまなみ海道
以前、芸予諸島の風景が「島かと思えば岬なり、岬かと思えば島なり」と表現されていたのを思い出しました。
いかに島が多いかが想像できますね。
このような特殊な地形が育てたものの一つが村上水軍です。
戦国時代にポルトガルの宣教師として来日し「フロイス日本史(正式名称は「日本史」)」として当時の記録を残したルイス・フロイスは村上水軍の事を彼らの領海を通行する船から無差別に金目の物を強奪する海賊と表現しています。
しかし、実態は領海を航行する船のガイドをすることによって「警固料(けごりょう)」と呼ばれる通行料を取る水先案内人だったと考えられています。
村上水軍が記録として現れる最も古いものは1394年のものでそこにも海上警護を請け負ったと記録されているそうです。
彼らのルールに従わずに領海を通過しようとした船に武力を用いたことから海賊とよばれたのでしょう。
それはさておきその武力は圧倒的な強さを誇っていました。
中国地方に勢力を伸ばしていた毛利元就がその覇権をかけて戦った「厳島の戦い(1555年)」では毛利方の水軍として一役を担い兵の数で圧倒的に不利だった毛利軍を勝利に導いています。
あるいは、織田信長の攻略で包囲された石山本願寺への兵糧を搬入するため大阪湾の木津川(きづがわ)河口で毛利軍と共に織田側の水軍と激突し、その目的を果たしています。
これは「第一次木津川口の戦い(1576年)」と呼ばれ、2014年に吉川英治文学新人賞、本屋大賞を受賞した和田竜(わだりょう)さんの「村上海賊の娘」を一読すればスリルと興奮を交えながら村上水軍の戦いぶりを知ることが出来ます。
このような活躍をした村上水軍ですが毛利家が関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れ、長州に移った1601年頃に衰退して行きました。
ところで村上氏自体の起源ははっきりしていませんが村上水軍はもともと一つだったものが「能島村上(のしまむらかみ)」「来島村上(くるしまむらかみ)」「因島村上(いんのしまむらかみ)」の三家に別れ三島村上水軍としてその体制を維持していました。
三島村上水軍の一つ因島村上の本拠地だったのが因島です。その因島には村上水軍に関する資料を展示した施設があります。
それが「因島水軍城」です!
水軍の城をイメージして造られたこの施設は「日本唯一の水軍城」と謳われ因島の観光名所の一つとなっています。
因島水軍城は因島村上家の菩提寺である金蓮寺(こんれんじ)の敷地内にあり、同じ敷地内には因島村上氏の墓石群を見ることが出来ます。
かつては海で活躍した水軍も時代の流れと共に消えて行ったわけですが、その活躍によってもたらされたものが因島の特産品として残っています。
何だかご存知ですか?
答えは「八朔(はっさく)」です。
↑写真フリーサイトよりダウンロード
因島には24の城があったそうですがその内の一つ青陰城のあった青景山の南麓の浄土寺の住職・恵徳上人(えとくじょうにん)が寺の側に生えていた果実を見つけ食したのが始まりとされています。
村上水軍は瀬戸内海から飛び出し東南アジアまでその勢力を伸ばしていたとされています。そうなれば当然それらの地域との交易も盛んであったと容易に想像出来ますね。
多品種の柑橘系の果物が海外から持ち込まれ、それらを食べた後に捨てた種から発芽して育った木が花を付け交配を繰り返しながら八朔が誕生したと考えられています。
因島には八朔を使って作られた食べ物が多くあります。因島に訪れた際には欠かせないお土産ですね。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが何がどこでどう関わって来るのか分かりません。
水軍と八朔もそんな関係の一つでしょう。
皆さんの住んでいる地域の特産品もルーツを辿ると面白い発見があるかもしれませんよ。
因島を訪れた際は因島水軍城を見学して八朔に関連するお土産を買うことをお忘れなく!
【English WEB】
http://japan-history-travel.net/?p=5673