「子午線のまち」に相応しいお城

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明石城

子午線(しごせん)と言う言葉はよく耳にしますが具体的に説明しようとすると上手く説明できないのではないでしょうか?

昔の時間は十二支で表現されていました。子午線の「子」は十二支の子(ね)、「午」は十二支の午(うま)の事です。子は現在の時間で0時、午は6時の位置にあたります。これを方角に置き換えると子は北、午は南になります。つまり子午線とは北と南を結ぶ線と言う事になります。

世界の時刻の基準となる子午線は本初子午線(ほんしょしごせん)と呼ばれ経度0度0分0秒と定義された子午線のことです。明治17年(1884年)、国際子午線会議で英国グリニッジ天文台を通る子午線が本初子午線と定められ、これを基準に15度毎に1時間ずつ時差を設け各国が採用する事を決めました。

↓イギリスのグリニッジ天文台

その2年後の明治19年(1886年)、日本標準時が制定されます。

そして日本の時刻の基準となる東経135度の子午線上に位置し「子午線のまち」と呼ばれているのが明石市(兵庫県)です。

明石の玄関口、明石駅のプラットホームに着くとその北側にまず最初に堂々とした2つの櫓(やぐら)が目に入ります。明石城です!この櫓は本丸の南東と南西にあることから巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれています。

ちなみに明石城に天守は建設されず4基の櫓のみが建設されました。その内の2基が現存している巽櫓と坤櫓となり国の重要文化財に指定されています。残りの2基は現存していませんが北東の位置に建てられた艮(うしとら)櫓と北西の位置に建てられた乾(いぬい)櫓となります。

日本の標準時間が定められたのは明治です。明石が「子午線のまち」と呼ばれる事が分かっていたかの如く付けられた名前ですね(^^)

明石城は小笠原忠真(おがさわらただざね)が徳川2代将軍秀忠の命によりによって築城したお城です。

明石は近畿地方と中国地方を結ぶ位置にあり、瀬戸内海の玄関口でもあります。関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))に勝利した徳川幕府は西日本に多く残る豊臣家恩顧の有力大名を警戒する必要があり、それを見張る軍事拠点として明石の地に城を建てました。以降、本多家や松平家が歴代城主となり明治維新を向かえる事となります。

ところで東経135度が通る市はほかにもあります。なぜ明石が有名なのでしょうか?それは明石の人達の子午線への強い関心が明石=子午線のまちと言うイメージを造り上げて行った事にあるようです。

どんな事でも強い関心を持ち続ける事でイメージを定着させる事が可能と言う事ですね。明石城の櫓の名前も子午線への関心を牽引したかも知れませんね(^^)

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