安芸安国寺に出家した後、戦国時代の趨勢を見極めた人物

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安芸安国寺(不動院)_金堂

「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎(後の豊臣秀吉)さりとてはの者にて候」

天正元年(1573年)の書状に記載されている織田信長の転落と、その家臣である秀吉の台頭を予想した文面です。

天正元年(1573年)と言えば天下布武を掲げた織田信長が7月に足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放し、室町幕府を滅ぼしています。更に8月・9月には小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)で浅井氏を、一乗谷の戦い(いちじょうだにのたたかい)で朝倉氏を立て続けに滅ぼした年でもあります。

つまり、信長の絶頂期に彼の没落と秀吉の躍進を見事的中させたと言う事です!

凄い慧眼の持ち主ですね~!

いったい誰がこの書状を書いたのでしょうか?

安芸武田氏(あきたけだし)の一族である武田信重(たけだのぶしげ)の子と伝えられる人物は毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると家臣に連れられて脱出し、安芸(あき:広島県)の安国寺(あんこくじ)に入って出家します。

その後、京都の東福寺の僧であり毛利家の外交僧でもあった竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となり東福寺に入る事に。やがて恵心の後を継いで毛利家の外交僧として活躍して行く事となります。

この外交僧こそが冒頭の書状を書いた人物、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)です。

毛利家は中国地方へ勢力を伸ばそうとする織田家と敵対して行く方向へと進んで行きます。恵瓊は、この時に織田方で陣頭指揮を取っていた秀吉と和睦の交渉に当たり、その才気を見出され秀吉の側近として採り立てられる事になります。そして最終的には6万石の知行を与えられて豊臣政権下において大名の地位を確立します(大名になったと言う説には異論もあるようですが、ここでは割愛せて頂きます)。

お坊さんが、大名に!?

そして時代は流れ、秀吉が天下統一を成し遂げた後、時勢は関ヶ原の戦いの場へと。。。。。

恵瓊は、どのような判断をしたのでしょうか?興味をそそりますね~

安芸武田家を滅ぼした毛利家へ、毛利家を臣下に治めた豊臣家へと常に時代の趨勢を見極めて自分の立ち位置を変えて来た恵瓊ですが、徳川家には付かず豊臣家の首脳陣の一人として関ヶ原の戦いに参戦します。

結果はご存じの通り徳川家が勝利を治めます。

信長の絶頂期にその没落と秀吉の台頭を見事に的中させた流石の恵瓊も最後の最後には判断を誤り六条河原にて処刑される事に。。。。。

恵瓊が自分の才覚に溺れたと考える事も出来るのではないでしょうか?真実はどうだったのかは分かりませんが、才覚に溺れず常に物事を謙虚に受け止める事により判断ミスを軽減する事は可能かもしれませんよね。

恵瓊が幼少の頃に出家して入った安芸安国寺は地理的条件が幸いして原爆の災禍を逃れ今も広島市東区に現存しています。

安芸安国寺は安芸武田家の滅亡後衰退していましたが、恵瓊が住持を務めた慶長5年(1600年)までの間に整備再興されたと言う事です。

特に金堂は山口市にあった禅宗寺院・凌雲寺から天正年間(1573-1592年)に恵瓊によって移築されたもので広島市内に現存する唯一の国宝として指定されています。

恵瓊は原爆の影響を受けない位置を予測したのでしょうか(^^)

ちなみに、現在は不動院と呼ばれています。恵瓊の後の有珍(ゆうちん)の代で真言宗に改められ寺号を変更した為だそうです。

安芸安国寺(不動院)は広島駅から車で15分程度の近い位置に有ります。広島へ訪れた際に、もし時間があれば一度寄ってみて下さいね。

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