家康が築いた徳川家とその菩提寺

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増上寺

東日本最大級を誇ると言われる朱塗りの三解脱門(三門)を潜り抜けると巨大な東京タワーをバックに増上寺(東京都港区)の大殿(本堂)が真っ先に目に入る。それもそのはず、増上寺は東京タワーから数百メートルの距離にある。

東京の人にとっては見慣れた風景かもしれないが、地方から来た人間にとってはお寺と巨大な鉄塔の組み合わせにはある意味圧倒される。

空海の弟子・宗叡(しゅうえい)が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身らしいが、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人の時、真言宗から浄土宗に改宗した為、聖聡が実質上の開基となっている。

増上寺は徳川家の菩提寺でもある。なんでも徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかったとき、住職の源誉存応(げんよぞんのう)上人と対面したのが菩提寺としたきっかけだったらしい。

そんな訳で家康の葬儀も増上寺で行われている。

更にここには徳川家霊廟が設けられており、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍の墓所が存在する。この霊廟は特別公開日しか入れないので、中を見学したい人には予め日にちを確認する事をお勧めしたい。

また、家康の戒名「東照大権現安国院殿徳蓮社数譽道道和大居士」からその名を取ったと言う安国殿が大殿(本殿)のすぐ横に建てられている。ここには家康が深く尊崇し、戦の勝利を得たという黒本尊阿弥陀如来が安置されている。

ところで徳川と言う姓だが、家康の元々の姓は松平である。なぜ徳川としたのか?

調べてみると複雑な理由があるようだ。大雑把にまとめてみると大体以下の通りとなる。

家康が三河の国(愛知県東部)を平定し、三河守へ任官される時の姓は松平であった。この当時、宮廷の官職に就くためには源氏、平氏、藤原氏、橘氏でなければならなかった。そこで徳川に改姓した。

徳川は新田氏系の得川氏から来ている。得川は「藤原氏」からの流れから来ているとして三河守として認められた。

その後、慶長8年(1603年)家康は征夷大将軍に任ぜられる事になる。幕府の長である征夷大将軍は源氏と言う慣例があった。しかし、徳川は源氏ではなく藤原氏の氏族として認められていた。

そこで今度は、得川氏の系譜を清和源氏の支流とし、源氏姓とする事により征夷大将軍として認められた。

多少間違っているかもしれないが、ざっとこんな感じだ。

要するにその場その場で任官されるに相応しい姓に変更して来たと言う事だ。簡単に言えば系譜の粉飾と言う事になる。それでも家康が将軍職に就いた後200年以上の長期に渡り平和な江戸時代の礎を築いたとなれば、許して然るべき事だ。

嘘も方便とはこの事かもしれない。良い悪いは別にして、臨機応変に対応して行く事の必要性は理解出来る。

家康が必死になってブランド化した徳川の姓。そんな徳川家の菩提寺増上寺。この方面に行く機会があれば立ち寄ってみては如何だろうか。

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