合資会社苗秀社(びょうしゅうしゃ)の社員は武士集団の直系の子孫の方々で構成されています!
どのような会社なのでしょうか?
そして、なぜ武士集団の子孫で構成されているのでしょうか?
松坂城下に残る近世武士の組屋敷(長屋)は御城番屋敷(ごじょうばんやしき:三重県松阪市)と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
全国に四つある国の重要文化財に指定された武家屋敷の中では最大規模のもので、現在も人が住んでいる武家屋敷はここだけ!
石畳の両側に植えられた槇垣(まきがき)、その内側にある手入れの効いた小庭。これらはより一層城下町の風情を引き立たせ、訪れる人の目を楽しませてくれます。
そしてこの武家屋敷を管理しているのが合資会社苗秀社です。
その成り立ちを辿ってみましょう。
三河(愛知県東部地方)の地で徳川家康が天下取りへの道のりを歩み始めた頃から仕えていた武士集団があります。その名は横須賀党。
強そうな名前ですね~
横須賀党は元和5年(1619年)に紀州徳川家の祖である家康の十男・頼宣(よりのぶ)の家臣として紀州藩の田辺領に遣わされる事になります。
彼らは田辺与力(たなべよりき)(与力=江戸時代以前には、足軽大将などの中級武士が大身の武士の指揮下に入る事を意味する語句としても用いられていた)と呼ばれ、藩主直属の家臣として田辺城主である安藤家を助勢する立場にありました。
しかし、時は流れ約230年後、突如安藤家の家臣と決めつけられてしまいます。
誇り高き横須賀党の子孫である田辺与力たちは直臣(じきしん:藩主直属の家臣)で有り続ける事を望み、陪臣(ばいしん:藩主の家臣の家来)となる道を拒みました。そして藩士の身分を棄て放浪生活を続ける事に、、、、、
三河武士としての誇りを保ちたかったのではないでしょうか?
そして、紀州藩への復帰を嘆願し続けて6年後の文久3年(1863年)、ついに松坂城の御城番として迎えられる事になります。
しかし、それも束の間、今度は明治維新により徳川幕府は瓦解。武士の存続基盤は消滅してしまう事に、、、、、
一難去ってまた一難とは正にこの事です。
それでも彼らは形を変えて存続を計ります。
士族授産(秩禄処分によって家禄収入を失った士族を産業につかせ、生活救済を図った明治政府の政策)で受けた財産を活用し、長屋を含めた資産を継続的に運用する為の「苗秀社」を創設し、明治11年(1878年)に三重県知事より認可を受けます。その後、大正15年(1926年)に合資会社となり現在に至っています。
設立当初の会社規則には「社員やその家族はこれからも変わらず苦楽をともにして家の繁栄をはかることを主眼とする」とうたわれていたそうです。そして今もその意思は受け継がれています。
武士社会が消滅した現代でも会社として存続し続ける横須賀党が、強い意志を持ち続ける事により目標は達せられる事を証明してくれています。
御城番屋敷へ行って武士の意志の強さを感じ取りましょう!