「魚の棚」と意外な接点を持つ剣の達人

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魚の棚商店街

魚の棚商店街(兵庫県明石市)にはタコ、タイ、カレイ、ヒラメなど明石海峡や播磨灘付近で獲れた新鮮な魚介類が所狭しと並んでいます!

鎌倉時代、新鮮な魚は魚商人の店先の大きな板の上に並べられその鮮度を保つために水が流されていました。その様子から魚の棚と名付けられたようです。

江戸時代、各地にある海辺の城下町ではどこでも「魚の棚」と呼ばれる町があったそうですが、今では魚の棚と言えば明石と言われるほど定着しおり、地元では商店街の看板等にもローマ字で「UONTANA」と表記され「うおんたな」の呼称で親しまれています。

その発音の由来は「うおんたな」と言った方が威勢と活気に溢れ、活きの良い魚を売るのにふさわしいことから自然と「うおんたな」と呼ばれるようになったそうです。

確かに「うおんたな」の方が活気を感じますよね!

剣豪宮本武蔵は、その一生を1人の大名に捧げる事はありませんでした。その武蔵が最も長く仕えたと言う大名が小笠原忠政(おがさわらただまさ)です。

忠政は信濃松本(長野県)藩初代藩主・小笠原秀政(おがさわらひでまさ)の次男として生まれ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父と長兄・忠脩(ただなが)が戦死したため、信濃松本8万石を領する事になります。その後、元和3年(1617年)に明石10万石へ移封され明石城を築城しました。忠政はその後、豊前小倉(福岡県)15万石に移封される事になり、当時忠政に仕えていた武蔵もこれに同伴したと言う事です。

突然、宮本武蔵を登場させましたが、その理由は武蔵が魚の棚に関係しているからです!

元和4年(1618年)、明石城築城にとりかかった時、同時に城下の町割が行われました。この時に線引きしたのが宮本武蔵だと伝えられています。

武蔵の線引きにより主に鮮魚を扱う東魚町と干物を扱う西魚町ができ、それぞれ「東うおんたな」と「西うおんたな」と呼ばれていたそうです。

剣の達人がこんなこともしていたなんて意外ですね(^^)

さて明石と聞いて真っ先に思い浮かぶものの一つとして「明石焼」があります。武蔵の線引きによって出来た魚の棚には沢山の明石焼のお店が軒を連ねています。

地元で玉子焼と呼ばれている明石焼は百数十年の歴史を持つと言われています。明石焼きを商売として始めたのは大正8年(1919年)から明石焼きの屋台を引いていた向井清太郎さんと言う方だそうです。向井さんの明石焼きの評判は大阪にも伝わりいくつもの業者が見学に来る程となり、それが「たこ焼き」になったと言う事です。

これが「大阪のたこ焼きのルーツは明石焼」と言われるゆえんだそうです。人気商品のアレンジを変える事で別のヒット商品が出来上がると言う事ですね。

宮本武蔵の線引きによって出来た魚の棚へ明石焼を食べに行きましょう!

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