日本とポーランドの意外な接点

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ワルシャワ旧市街

第二次世界大戦当時、ナチス・ドイツ兵の前でポーランドの首都ワルシャワの子供達が「君が代」「愛国行進曲」を日本語で大合唱!ドイツ軍は驚き、呆気にとられ、その場を退く事に。。。。。

ドイツ兵?ワルシャワ?君が代? ???

いったい何が起きたのか?これだけではさっぱり分かりませんよね。そこに至る迄の背景を辿ってみましょう。

18世紀末(1700年後半)、ポーランドは消滅。地図上から姿を消しロシア帝国に組み込まれます。独立を求めたポーランド人は何度も蜂起しますが失敗、流刑の地であるシベリアに送られました。

特に1863年から翌年にかけて行われた「一月蜂起」では、約8万人ものポーランド人が流刑囚としてシベリアに送り込まれたそうです。

日本が地図から消されてしまったらどう思いますか?当時のポーランド人にとっては筆舌し難い事だったのではないでしょうか。

その後100年以上の時を経て第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは独立を果たします。ところが1917年に起きたロシア革命による内乱はシベリア全土に拡がり当時10万人以上いたポーランド人達を巻き込んで行く事になります。その戦火を逃れる為に東へ東へと向かったそうです。

混乱のさなか親とはぐれたり失ったりした子供達が続出しました。

このような惨状の中にいたウラジオストック在住のポーランド人達は「ポーランド孤児救済委員会」を組織し祖国ポーランドへ帰そうとしますがロシア革命後に樹立したソビエト連邦とポーランドの間でポーランド・ソビエト戦争が勃発し、孤児たちの帰還は困難な状態となります。

救済委員会はヨーロッパ諸国やアメリカに輸送援助を求めましたが要請が受け入れられる事は有りませんでした。そこで当時はまだ小国だった日本へ救援の依頼をします。

これを受けた外務省は即座に日本赤十字社に掛け合い、わずか17日後にその要請を受理。この決定を下した1920年はポーランドが独立してから2年しかたっておらず、更に言えば要請は一民間組織からのものです。

当時の混沌とした国際情勢の中、日本政府の取った迅速な対応とその英断に驚かされるのは私だけでしょうか?

救済活動はシベリア出兵中の陸軍の支援を得て2年近く実施され800名近くの孤児が保護され日本に招き入れられました。そして日本に滞在中の孤児達には治療、療育が施され2年間を過ごします。

やがて日本を離れる時が来ます。孤児達は乗船を拒み、泣きながら見送りに来ていた日本人の医師、看護婦など御世話になった人々にしがみつき離れようとしなかったそうです。そして波止場に並んで、「アリガトウ」「アリガトウ」を繰り返し、滞在中に覚えた「君が代」を精一杯歌ったと言う事です。

孤児たちは後に「日本は天国のような場所であった」と回想しているそうです。

いかに当時の日本人が子供達に暖かく親身になって接したのか、この事実を知れば想像に難くありません。日本人として誇りに思います。

イエジ・ストシャウコフスキ。。。祖国に戻った孤児の1人です。17歳になったこの青年は日本との親睦を目的とし1928年にシベリア孤児達で組織される「極東青年会」を立上げ、その活動の一つとして日本の文化をポーランドに紹介していったそうです。

その後、世の中の情勢は第二次世界大戦へと突入し、ポーランドの首都ワルシャワはナチス・ドイツ軍の占領下に置かれます。そんな中、イエジ氏は極東青年会の幹部達を招集しレジスタンス運動への参加を決定します。イエジ氏の部隊は、イエジキ部隊と呼ばれるようになりました。

イエジキ部隊には戦禍で親を失った孤児達も参加し、その人数は最大1万5000人、ワルシャワ地区だけで3000人が正規戦闘員として登録される巨大組織へと膨れ上がります。

ワルシャワでの地下活動は激化、イエジキ部隊はナチス当局から目を付けられる事になります。

当時、イエジキ部隊は孤児院を隠れみのとしていました。そこへ、ある日突然ナチス・ドイツ兵が強制捜査の為に押しかけます。この急報を受けて駆けつけたのが日本帝国大使館の書記官でした。

孤児院の院長を勤めていたイエジ氏はこの書記官からドイツ兵の前で孤児達に日本の歌を歌わせる事を依頼されます。

これが冒頭での日本語の大合唱の話へとつながります。

イエジキ部隊は何度も日本帝国大使館に庇護されたそうです。つまり、ドイツと同盟関係にあった日本がポーランドのレジスタンス活動を守っていた事になります。

憶測になりますが、例え同盟関係に有ろうとも、ナチス・ドイツ軍のやり方に疑問を持っていた日本人の正義感がレジスタンス活動を庇護するに至ったのではないでしょうか?

1944年8月に起きた「ワルシャワ蜂起」での死者は20万人にも及びワルシャワの街は壊滅の状態に陥ったまま第二次世界大戦は終戦を迎える事となります。

この時、破壊されたワルシャワの街は現在「ワルシャワ歴史地区(旧市街)」として完全に復元され世界文化遺産に登録されています。

復元は厳密に行われました。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用され、破片は再利用できる装飾的な要素に変えられ、それらはもともとあった場所に再度挿入されたそうです。壁のひび割れ一つについても当時の写真などから出来る限り復元したそうです。

復興を強く願ったワルシャワ市民達の熱意が街を完全復活させたのでしょう。現在はレストランやカフェ、土産物店が軒を連ね、大勢の観光客で賑わいを見せています。

実際に行ってみると、その完璧なまでに綺麗に復元された町並に驚かされます!

さて、この話には続きがあります。もう少しだけお付き合い下さい。

ワルシャワ蜂起から約50年後の1995年(平成7年)。日本は阪神淡路大震災に見舞われます。

この時にいち早く救援活動をしてくれた国の一つがポーランドでした。そしてこの地震で孤児となった子供達をポーランドへ招待してくれたのです。震災孤児が帰国するお別れパーティーには、4名のシベリア孤児の方が出席され自分たちが日本に親切にしてもらったことを切々と語り、涙を流してこれで恩返しができたと語ったそうです。

人種や国が変わっても、あるいは年月が経っても真摯な行動には真摯な対応で答えてくれるという好事例ではないでしょうか。

かつての日本人の取った行動、ポーランド人の恩返し、おそらくこの事実を知っている人は多くはいないと思います。

今回の話を含め、このような事実はまだまだ多く残されています。しかし残念な事にあまり多くの方に知れ渡ってはいません。現在、グローバル化が激化する中でこれらを知る事の重要性は高まっていると感じます。日本人としての誇りを持って頂くためにも、今後も情報を発信し続けたいと思います。

近代では苦難の歴史を辿ったポーランドですが、その歴史の結果からなのかポーランド人は真面目で勤勉です。個人的には日本人とも波長が合うように思います。

最後に少し余談です。

ポーランドの3大偉人をご存じでしょうか?コペルミクス、ショパン、キューリー夫人です。ポーランド人が勤勉な事を証明していますね。ちなみにショパンの心臓が埋められた柱のある教会がワルシャワ市内にあります(下記の写真を参照して下さい)。

ワルシャワの中心には文化科学宮殿と言う高層ビルがあります(下記の写真を参照して下さい)。このビルは共産時代にスターリンから贈られた建物です。ワルシャワ子たちはこの建物からの眺めが好きだそうです。なぜならばこの建物を見ずにすむからだそうです(^^)

ポーランドに訪問する機会に恵まれた方は親日のポーランドの人達と接し、ポーランドを楽しんで来て下さい!

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