コシヒカリに囲まれ伝説に守られる丸岡城

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丸岡城

お米と聞いてまず最初に思い浮かぶ銘柄の一つは「コシヒカリ」ではないでしょうか。

古代と中世を三分したときの時代区分を上古(じょうこ)・中古(ちゅうこ)・近古(きんこ)と呼ぶそうです。

時代区分には色々な呼称があるんですね。知りませんでした~。

その上古の勢力圏の一つである越国(こしのくに)は現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を指します。

コシヒカリはこの越国に因み「越の国に光輝く米」と言う願いを込めて命名されたそうです。

そして、コシヒカリの古里と呼ばれているのが福井県坂井市丸岡町です。その理由はコシヒカリは丸岡町出身の石黒慶一郎(いしぐろけいいちろう)博士の長年の研究の末に開発された品種であることから来ています。

コシヒカリは有名ですが、その古里を知らない人は多いのではないでしょうか?

さて、日本人なら誰もが知っているコシヒカリの発祥の地・丸岡町には、あるシンボルが存在します。それが丸岡城です!

小高い丘の上に建てられた丸岡城は何も知らないと地方にある小さなお城と言うイメージしか持つことは無いでしょう。

実際に行って見ても確かにその通りです。しかし、歴史を見るとその容姿とは異なり、特筆すべき経歴を持っています。人は外見で判断してはいけないと言いますが、丸岡城はその事を教えてくれている気がします。

まずは丸岡と言う地名の由来です。

「古事記」「日本書紀」によると丸岡は第26代・継体(けいたい)天皇(507年即位)が育った地であり、その後、越前地方(近江地方説もある)を統治していたと言う事です。そして城の建つ丘は天皇の第二皇子椀子(まるこ)王が葬られた場所と言い伝えられています。その事から「丸子の岡」と呼ばれるようになり、現在の「丸岡」という地名になったとされているようです。

丸岡城には大蛇に化身した椀子皇子が守護神となり有事の際には霞を吐いて城を包み隠すと言う伝説が残っています。この事から「霞ヶ城(かすみがじょう)」の別名を持ちます。

大蛇になった天皇の皇子が守ってくれているとは何とも心強い事ですね。

次に、歴代の城主に目を向けてみましょう。

丸岡城の歴代の城主の中には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら三英傑の重臣達とのつながりが強い人物が含まれています。

現在の丸岡城は一向一揆の備えとして天正4年(1576年)織田信長の命により織田家の一番家老・柴田勝家(しばたかついえ)が甥の勝豊(かつとよ)に築かせたものです。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れると、丸岡の地は清須会議で秀吉側に付いた丹羽長秀(にわながひで)の所領となります。長秀は丸岡城主として青山宗勝(あおやまむねかつ)を置きました。

しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍側に付いた宗勝は改易され、越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)が入封します。そして丸岡城には秀康の家臣・今村盛次(いまむらもりつぐ)が入城しました。

その後、慶長17年(1612年)福井藩に附せられた本多成重(ほんだなりしげ)が新たな城主となります。成重は三河(愛知県東部)に生まれ7歳から徳川家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)に仕え、以降、広忠(ひろただ)、家康と三代に渡って徳川家に忠誠を尽くした重次(しげつぐ)の長男に当たります。

こうして並べて見ると戦国時代の覇権の移り変わりと共に乱世の厳しさを感じ取る事が出来ます。

現在、見られる天守は、昭和23年(1948年)の福井地震によって倒壊した後、元の古材を80パーセント近く使用して1955年(昭和30年)に修復再建されたもので、現存する天守閣としては最古級のものになります。

コシヒカリの実る福井平野の田園風景を見ながら小さいながらも堂々とした歴史を持つ丸岡城へ行きましょう!

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