ハプスブルク王朝の末期、その君主国の一つオーストラリア帝国(のちオーストラリア=ハンガリー帝国)の皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世の王妃だったエリーザベト皇后。彼女は「シシィ」の愛称で親しまれ絶世の美女と謳われていました。
そして、な・なんと!日本人の中でただ一人、そんな伝説の女性の隣で食事をした人物がいます。
絶世の美女と食事なんて羨まし~(^^;
誰なのでしょう?
答えは岩倉具視(いわくらともみ)です。
欧米諸国を周っていた岩倉使節団は1873年6月にウィーン(現オーストリアの首都)を訪れました。その際にシェーンブルン宮殿で行われた宮中午餐会に招待され、エリーザベト皇后の隣で食事をする事となったのです。
しかし何故、天皇でも総理大臣でもない岩倉具視がそんな美女と食事をする事になったのでしょうか?
まずは岩倉使節団の説明から入りましょう。
岩倉使節団とは1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて特命全権大使岩倉具視を中心として総勢107名で構成され、日本から欧米諸国へ派遣された使節団の事です。
107名の中には木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文も含まれています。しかし、こんな明治政府の超重要人物達が2ヶ月もの間、日本を不在にするなんて今では考えられない事ですよね(^^)
さて、岩倉使節団の目的ですが、大きくは以下の3つとなります。
(1)幕末に条約を結んだ各国を訪問し新政府による国書を提出する
(2)上記不平等条約の改正への予備交渉
(3)欧米諸国の近代的制度、文明の調査・研究
当時の明治政府は不平等条約の交渉をするに当たり、アメリカやイギリスが前向きに対応してくれるはずはないと考えていたようです。そこで日本との間にあまり大きな利害関係の無い、つまり当たり障りのないオーストリア=ハンガリー帝国との交渉を軟化さた後に他の列強諸国との交渉へ踏み切ろうとしたようです。
一方、オーストリア=ハンガリー帝国ですが、こちらはこちらで下手に日本との条約改正のきっかけを作ってしまった場合、他の欧米列強から非難の嵐を受ける事を予測していました。また、日本との関係をむやみに悪化させたくないと言う思いもあった事でしょう。
そこでオーストリア=ハンガリー帝国は、この上なく丁寧に歓迎して問題を有耶無耶にしてしまおうと考えた訳です。
その作戦の一つがシェーンブルン宮殿での宮中午餐会です。
エリーザベト皇后を岩倉具視の横に付けてお色気で惑わそうとしたかどうかまでは分かりませんがオーストリア=ハンガリー帝国も必死だったと言う事ですね(^^)
不平等で契約したものは後々面倒な事になると言う好事例ですね。会社や個人でも同じ事が言えるのではないでしょうか?強い立場の者が弱い立場の者に力ずくで決めさせるのではなく、何事も良心的に決めたいものです。
絶世の美女エリーザベトが過ごし、岩倉使節団御一行が訪れたウィーンを散策すると、あちらこちらに音楽の都ならではの風景を目にする事が出来ます。機会があれば訪問してみて下さい。