伊豆の国市の市の木と歴史上有名なカップルの関係

このエントリーをはてなブックマークに追加

蛭ヶ小島

伊豆は古くから流刑の地とされて来ました。それは政治の中心であった都(京都・奈良)から遠く離れた地であった事と当時の貴族達が伊豆半島と伊豆諸島を混同していたところから来ているようです。流刑人の多くは罪人というよりは、政治的な敗者でした。

かつて流刑地だった伊豆半島ですが現代は首都圏から近い観光地として多くの人が行き来しています。

伊豆半島の玄関口に位置しているのが平成17年(2005年)伊豆長岡町(いずながおかちょう)、大仁町(おおひとちょう)、韮山町(にらやまちょう)の3町が合併して出来た伊豆の国市です。

突然ですが、伊豆の国市の市の木は「梛(なぎ)」です。

この木が今回の話に深く関係して来ます。

梛の葉には普通の葉のように葉脈が走っておらず、縦に繊維があるため、葉が横に割けにくいという特徴があり、ひっぱてもちょっとやそっとでは破れないそうです。このような特徴から新たに誕生した伊豆の国市が強い絆で結ばれ、未来に向けて行政と市民が一体となって発展を目指すという願いを込められてこの木が選ばれたと言う事です。

さて今回の主人公の登場です。流刑の地・伊豆に流された有名な人物の一人が源頼朝(みなもとのよりとも)です!

頼朝はこの伊豆の地で北条政子(ほうじょうまさこ)と出会い結婚します。

2人が密かに出会いを重ねたと伝えられるのが伊豆山神社(いずさんじんじゃ:静岡県熱海市)と言う事です。そして、その境内には梛の木があり、頼朝と政子は、その葉を変わらぬ愛の証に持っていたと言われます。

そうです梛の葉はひっぱてもちょっとやそっとでは破れない葉っぱです。頼朝は政子と共に武士の礎・鎌倉幕府を築き上げました。

市の木を梛としている伊豆の国市には頼朝の流刑地の候補地として知られる「蛭ヶ小島(ひるがこじま)」があります。

候補地と書いたのは、この地が本当に流刑地だったのかは解明されていないからです。

なぜ蛭ヶ小島が候補地となたかと言えば江戸時代末期に学者だった秋山富南(あきやまふなん)が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑(蛭島碑記)が1790年に建てたてられた事に始まります。

本当の流刑地がどこなのかは分かりませんが、頼朝が流刑地に流されたのは14歳。その後20年近くそこで暮らす事になります。もし20年間挙兵の機会を伺っていたとしたらそれは忍耐の一言ではないでしょうか?

忍耐と言う言葉は最近ではあまりカッコいい言葉に思われていないかもしれません。しかし、物事を成就する際には重要な事ではないでしょうか。

蛭ヶ小島は公園として整備されており、園内には茶店や頼朝と政子の像、蛭島碑記が立っています。伊豆への観光の際は頼朝が20年間耐え忍んだ候補地の一つ伊豆の国市の蛭ヶ小島に寄って頼朝の忍耐力を学びましょう!

このエントリーをはてなブックマークに追加