北海道の南西部に位置する江差町(えさしちょう)。
この町には昔から色々な来訪者が来ました。しかも歴史上かなり重要な役割を果たしています。
何なんでしょうか?
平氏滅亡後に源頼朝(みなもとのよりとも)と対立し、平泉(岩手県南西部)へ逃れた弟・義経(よしつね)。そして彼を庇護した奥州藤原氏は鎌倉幕府軍と敵対する事に。
奥州合戦により東北地方一帯で清衡(きよひら)・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の3代に渡り栄華を極めた奥州藤原氏は4代目の泰衡(やすひら)で滅亡します。
江差はその泰衡の一族が上陸した地と言われているそうです。
そして数百年後の江戸時代、江差はニシン漁が盛んになり日本海航路の北前船の交易によって商業の町、文化の町として発展しました。最盛期には「江差の五月は江戸にもない」といわれる程の繁栄ぶりだったようです。
漁で財を成した網元達が立てた木造建築物は鰊御殿と呼ばれ、江差には漁業・商業・廻船問屋を営んでいた横山家の鰊御殿が残っており一般公開されています。
奥州藤原氏の繁栄が別の形になって復活したのでしょうか(^^)
当時の北海道は米が穫れなかった為、江差の所属していた松前藩の財政を支えたのがニシンの交易だったそうです。
ニシンを漢字にすると鰊あるいは鯡となりますが、江差の人達は上記の事から「ニシンは魚にあらず、米である」という意味から、鯡をニシンと読んでいるそうです。
さて、ニシンと北前船の次は何が登場するのでしょうか?
これが、また凄いものなんですよね。
それは江戸幕府がオランダに発注して建造した開陽丸(かいようまる)と言う軍艦です。
戊辰戦争において奥羽越列藩同盟の崩壊の色が濃くなると榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕府海軍を主体とする勢力は開陽丸へ乗り込み江戸を脱出。途中、仙台藩へ寄港し、同盟軍及び新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容し、蝦夷地(北海道)へと向かいました。
旧幕府軍は箱館及び五稜郭を占領。その後、松前城を奪取し、江差へと進軍。その援護のために開陽丸も江差沖へ向かったのですが、ここで思わぬ事態に。。。
慶応4年(1868年)11月15日江差沖に到着したその夜、天候が急変し座礁・沈没!
主力戦艦の損失は戦局に大きく影響し、旧幕府軍は敗戦へと向かいました。
悲運の一途を辿った開陽丸ですが、その後復活への道を歩みます。
沈没以来明治7(1874年)年頃までは大砲、弾丸、錨などが引き上げられました。その後100年近く中断されたものの、昭和49(1974年)に潜水調査が行われ翌年から引き揚げ作業が本格的に開始。
そしてオランダに保管されていた設計図に従い復元され、1975年(昭和50年)、日本初の海底遺跡として登録されました。
現在は「開陽丸青少年センター」として江差の観光のシンボルの一つとなり活躍しています。
まさか、沈没船がこのような形で復活するとは誰も思っていなかったでしょう。活用次第では役に立たなくなった物も利用価値が出て来ると言う事ですね。
奥州藤原氏の一族、ニシン、北前船、そして開陽丸。さて次は何が江差に現れるのでしょうか?