内堀の幅はなんと54m!
広い掘りに囲まれた城は、まるで海面に浮かんでいる海鳥が今にも羽ばたこうとしている姿を連想させます。
今治城(いまばりじょう:愛媛県今治市)は瀬戸内海に面した海岸上に建てられた日本屈指の海城であり、香川県の高松城、大分県の中津城と並ぶ日本三大水城の一つです!
ちなみに、掘りの水は海水が引き入れられている為、クロダイなどの海水魚が泳いでいたりするそうです(^^)
誰がこんなお城を建てたのでしょうか?
その人は築城の名手、江戸時代の近世城郭の創始者の一人と呼ばれている藤堂高虎(とうどうたかとら)です。
築城の名手と言えばもう一人、加藤清正(かとうきよまさ)がいますね。清正との築城の違いは特に石垣の造りに見られます。清正が石垣の反りを重視したのに対し、高虎は石垣を高く積み上げる事を重視しています。
その特徴は今治城にも現れており砂浜上に築かれた高い石垣は日本初だそうです。
石垣は城の中でも重要な役割を担っているので2人とも熱が入ったのでしょうね(^^)
高虎は関ヶ原の戦いでの武功が認められ伊予半国の20万石を与えられた後、慶長7年(1602年)に築城を開始し慶長9年(1604年)に完成させています。
このように今治城は関ヶ原の戦い後の早い時期に築城されたため、近世城郭の原型とも言えるお城です。
さて、そんな由緒ある今治城ですが、天守の存否については物議を醸しています。
どう言う事でしょうか?
天守は、そのほとんどが天守台に建てられるのですが今治城には天守台がないと見られています。また、天守の存在を裏づけ出来るような遺構や一級資料なども確認されていないとの事です。
その一方で「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)」と言う文献には「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」と記述されているそうです。
今治城の天守は高虎によって伊賀上野城(三重県)に移築する目的で解体されたが徳川家康が丹波亀山(京都府)に城を築くと聞き献上したと言う事です。
つまり天守が存在していた事になります。
ちなみに現在の天守は明治5年(1872年)に撮影された亀山城本丸の写真を基に昭和55年(1980年)に建設されたものです。残念ながら亀山城の天守も解体されて存在しない為、今治城の天守存否に関する調査は不可能です。
結論が出ていないまま天守は建てられましたが現在の天守は広いお堀と石垣に調和していると思いますし、最上階からはしまなみ海道の来島海峡大橋を含む瀬戸内海の綺麗な景色が私たちの目を楽しませてくれているので、それはそれで良いのではないでしょうか。
模擬天守に関しては賛否両論あるかも知れませんが古い時代のものを利用して新しくアレンジする事も良い面は有りますよね♪
【English WEB】
http://japan-history-travel.net/?p=5420