伝説と物語。そして事実。
古いものと新しいもの。
種々雑多なものが入り混じり1つの個性的な場を造り上げている。
そう感じさせてくれるのが道後温泉である。↑道後温泉本館の看板
その発見は伝説から始まる。
昔、足を痛めた一羽の白鷺が岩の間から湧き出ている温泉を見つけ湯に浸していたところ、傷は癒え飛び立って行った。これを見た人たちが手を浸すと温かく、温泉である事を確認した。↑道後温泉に見られる白鷺の飾り
また、こんな伝説もある。
出雲の国から伊予の国へと旅して来た大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)だが少彦名命が病を患ってしまう。大国主命が少彦名命を掌にのせて湯であたためたところ、たちまち元気になり、石の上で踊った。
その石は「玉の石」と呼ばれ、道後温泉本館の北側に見る事が出来る。↑玉の石
あるいは、聖徳太子は病気療養のため道後温泉に滞在したと伝えられている。その際、風景とお湯の素晴らしさを詩に詠み碑文を遺したそうだ。ただ、この碑文は発見されておらず道後温泉最大の謎とされている。
伝説と事実の狭間を漂っている話である。
道後温泉は日本三古湯の1つに数えられ3000年の歴史を持つとされている。
これには伝説ではなく根拠が存在する。
道後温泉本館の南隣に位置する冠山(かんむりやま)の地層から約3,000年前の縄文中期の土器・石鏃(せきぞく:いしでつくったやじり)が発見されている事から当時の縄文人が沐浴していたと推測されている。
このように3,000年もの歴史があれば事実もあるし伝説もある。あるいは物語も生まれる。
道後温泉は「源氏物語」の夕顔の巻に登場する。
また、小説「坊ちゃん」の中で道後温泉が「住田の温泉」として登場しているのは有名である。
この経験が物語となった事は周知の事実である。
最近では道後温泉本館がスタジオジブリのアニメ映画「千と千尋の神隠し」に登場する「油屋」のモデルとなったとされている。
伝説と物語、そして事実が交錯し、長い歴史を持つ道後温泉は今も尚、全国的に人気のある温泉の1つだ。
なぜ人気があるのだろうか?
それは道後温泉本館の成り立ちを知れば納得するだろう。
道後温泉と言えば「道後温泉=道後温泉本館」といっても良いくらいに道後温泉本館がシンボル的存在となっている。
↑道後温泉本館↑道後温泉本館内の展示室↑道後温泉本館内の中庭
1890年(明治23年)、伊佐庭如矢(いさにわゆきや)が初代道後湯之町町長に就任した時、道後温泉本館を含み温泉内の建物は老朽化が進んでいた。しかし財政難によって建て替えが出来る状況ではなかった。
そこで如矢がとった行動の1つは自分の給料を温泉施設の改築費用に充てがう事だった。
しかし、当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代にその総工費は13万5千円、現在の金額に換算すると13億円以上である。私費だけではどうにもならない。
当然周りから猛反発をくらった。
しかし、それを抑えて計画を推し進めた。
道後温泉本館には振鷺閣(しんろかく:刻太鼓を鳴らす場所)を儲け、当時では珍しかった「ぎやまんガラス」を取り付けたり、日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)を増築したりするなど奇抜なアイデアを盛り込んだ。↑又新殿↑皇室用の又新殿入り口
また、松山市や県外からの訪問客を増やすために道後温泉まで伸びていなかった鉄道を敷設した。↑道後温泉駅↑坊ちゃん電車
現在、道後温泉の名物となっている「坊ちゃん団子」も如矢の考案によるものらしい。↑坊っちゃん団子
以上の施策の結果どうなったかはここで語る必要はないだろう。
今、特に地方の町や観光地を活性化させるために様々な取り組みが進められている。しかし、がなかなか上手くいかない地域もある。
如矢の残した言葉に成功へのヒントが隠されている。
「100年の後までも、他所が真似できないようなものを作ってこそ、はじめてそれが物を言うことになる。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる」
如矢の成した事は3000年の歴史を現代で終わらせる事なく更に継続させるだろう。そしてその偉業は伝説や物語ではなく事実として語り継がれていくに違いない。
今日も道後温泉は賑わいを見せている事だろう。