エメラルド色に染まる宇和島海を刻むリアス式海岸。海面が陸地に深く切り込んだ位置にある小高い山の上から宇和島城が街を見渡している。
↑宇和島城本丸跡から望む宇和島海
↑宇和島城
愛媛県の県庁所在地・松山市から車で約1.5時間。四国の西の端に当たりお世辞にも便利な場所とは言えないこの城下町は幕末のある時期において文明化の最先端を走っていたと言える。
独眼竜の名称で知られる仙台藩・伊達政宗(だてまさむね)の長男・伊達秀宗(だてひでむね)は大坂冬の陣(1614年)の功により10万石を与えられ宇和島藩の初代藩主として宇和島城に入城。宇和島藩はその後、仙台藩・伊達家の分家として1871年(明治4年)の廃藩置県まで続いた。
1853年、その廃藩置県のきっかけを作ったとも言える4隻の巨大な蒸気船が浦賀沖に現れた。ペリー来航である。これ以降、日本は動乱の渦の中へ巻き込まれて行く事になる。
その頃、宇和島藩を治めていたのは8代藩主・伊達宗城(だてむねなり)だった。
宗城は福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らと交流があり彼らと共に「幕末の四賢侯(しけんこう)」の一人に数えられた。
島津斉彬は欧米から最先端の文化・技術を取り入れ藩の近代化を強力に進めた事で知られるがそう言った面では宗城も斉彬と同じ先進的感覚の持ち主であったと言える。
宗城は領内で蒸気船を造る事を夢見た。
宗城から蒸気船建造の話を受けた藩の家老・桑折左衛門(こおりざえもん)は領内で蒸気船を造れる者の調査を始めた。
↑宇和島城の立つ城山入り口に移築された桑折氏武家長屋門
結果、城下で提灯の張り替え業を営んでいた嘉蔵(かぞう)と言う男に白羽の矢が立った。
嘉藏が抜擢されたのは細工物には恐ろしく器用だったと言う理由かららしいが、提灯屋が蒸気船を開発すると言うのは現代で言えば車の修理屋にジェット機の開発を命じたと同じようなものであろう。
あまりにも無謀といえば無謀だ。
一方で身分制度が厳しかったこの時代に藩の中でも最下級の身分であった嘉藏に大役を命じた宇和島藩の大胆さには頭が下がる。
ちなみに蒸気船の心臓とも言える機関部は嘉藏によって開発されたが船体については長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が招かれ技術指導に当たった。
↑車船之図(蒸気船を造る過程で試作した実験船の絵図)
さて、結果は?
1859年、試運転に成功した。ペリーの来航からわずか6年後の事である。
しかし、それは薩摩藩に次いで日本で二番目の蒸気船であった。
ただ、ここで注目すべきは薩摩藩の蒸気船は外国人技術者の手を借りて完成させているが宇和島藩のそれは日本人の手だけで完成させている事にある。
つまり日本初の蒸気船の完成は逃したものの宇和島藩の蒸気船は日本人の手だけで造られた純国産と言う意味では日本初と言う事になる。
宇和島藩は薩摩藩のような大藩ではない、しかも嘉藏は全く知識の無い状態から蒸気船を完成させてしまったのだから驚愕すべき事実である。
嘉藏が蒸気船を完成させるまでの苦労は相当のものだったようだがその功績により苗字を名乗る事を許され、併せて名前も変えた。
「前原巧山(まえばらこうざん)」がその名である。
巧山の功績は蒸気船を完成させた事よりも不可能と思われる事も可能にする力が人には備わっていると言う事を証明した事にあると思う。
身分制度の厳しい時代に苗字を持つ事が許されなかった最下級の身分の者が苗字を得た事にも同じ事が言える。
さて、宇和島海を航行する蒸気船の様子を見守ったであろう宇和島城に着目しよう。
宇和島城の城郭は伊達家が藩主となる以前、戦国時代に豊臣秀吉の家臣だった藤堂高虎(とうどうたかとら)によって築かれた。
現在の天守閣は高虎によって建てられた望楼型天守閣を宇和島藩2代藩主・伊達宗利(だてむねとし)が1666年に層塔型へと再建したものであり日本に残る現存12天守閣の一つである。
↑宇和島城
天守閣の入口は寺社建築に見られる大きな唐破風(からはふ:破風とは切妻造や入母屋造の屋根の妻の三角形の部分。唐破風とは中央部を凸形に、両端部を凹形の曲線状にした破風)が施され城の本来の防衛機能よりも芸術を優先したとも言える造りとなっている。
↑唐破風の施された天守閣入口
城内に入ると現存唯一のものとされる廊下の内側に障子戸が残る形式がちょっとした風情のある雰囲気を醸し出している。
↑天守閣内の障子戸
この平和的な要素が現存天守閣として現代まで生きながらえさせて来たのかもしれない。
最後に天守閣よりずっと下の方向に視線を移してみよう。
天守閣の立つ城山の裾野は現在宅地となっている。
↑宇和島城の立つ城山の裾野
しかし実のところかつては東側に海水を引き込んだ堀が存在し、西側半分は海に接していたそうだ。
宇和島藩が蒸気船の完成に成功したのはかつて海水に囲まれていた宇和島城が海を懐かしく思い蒸気船が再び海へ連れ出して行ってくれる事を願ったからなのかもしれない。