天下を治めた徳川家康の六男として生まれながらも、冷たい処遇にさらされた松平忠輝(まつだいらただてる)。
その処遇に終止符が打たれるまでには想定外の長い年月がかかりました。
その処遇とは?
長い年月とはどれくらいなのか?
忠輝によって築城された高田城(長野県上越市)は外堀を含めると東京ドーム約13個分の60ヘクタール。
↑内掘
↑外堀
これだけの広さのお城が、なんと4ヶ月間で完成したそうです。
築城に当たっては1日に10万人の労働力が投入されたとも言われています。
大規模な城郭面積を誇るお城ですが天守閣は存在せず3重3階の三重櫓が天守閣の代用とされていました。更に石垣も存在していません。
↑三重櫓
これらが築城の期間を縮めた理由の一つにもなっているようです。
驚くほどのスピードで築城された高田城ですが、築城主の忠輝が初代城主の座から下ろされるのもスピーディーでした。その年数、築城からわずか2年です。
2年の間に実父・家康の死がありましたが忠輝は家康の今際の際(いまわのきわ)にも面会を許されなかったと伝えられています。
忠輝は幼い頃より家康から疎まれていたようです。
その理由は母親の身分が低かった。幼少期の忠輝の容貌が醜かった。などの理由が挙げられていますが、いずれにしても実の父親から疎まれるとはいたたまれませんね(ToT)
しかし、忠輝にとっての本当の不幸は兄である二代目将軍・秀忠(ひでただ)が幕府の実権を完全に握ってから始まります。
大坂夏の陣で失態を犯した事などが責められ、城主の座を下ろされ改易・流刑に追い込まれてしまいました。
改易とは領地、屋敷を没収される事。武士にとって切腹の次に思い刑罰です。
改易後は伊勢国朝熊(三重県伊勢市・鳥羽市にある山)→飛騨国高山(岐阜県)→信濃国諏訪(長野県)と流され92歳で幽閉先である諏訪高島城にて死去しました。
父親に疎まれた上に兄からこのような重い罰を受けるとは何とも言い難い事です(ToT)
しかし、なぜ父や兄からここまでの処遇を受けたのでしょう。諸説ありますが真相は定かになっていないようです。
以上のような冷遇を受け続けた忠輝ではありますが、家康との仲は埋まっていたと言う説があります。
天下人のバトンのように織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と渡り歩いた野風(乃可勢)と名づけられた一本の笛があります。竹の節が1つだけ含まれていることから一節切(ひとよぎり)と呼ばれる尺八の一種です。
この笛は家康から忠輝に渡されたと伝えられ現在、忠輝が最後に暮らした長野県諏訪市にある忠輝の菩提寺・貞松院(ていしょういん)に保存されています。
天下人の象徴のような野風(乃可勢)の笛が最終的に忠輝に渡されたと言う事は家康との仲は埋まっていたと言うことなのでしょうか。そうであって欲しいものですね。
さて、流罪のまま亡くなった忠輝ですがその処遇は意外な形で終止符が打たれます。
貞松院の住職・山田和雄さんが忠輝の300回忌に赦免運動を思い立ち奔走。徳川家に訴えを続け、熱意に打たれた徳川宗家18代当主徳川恒孝(とくがわつねなり)さんが赦免状をしたためます。
そして、1987年(昭和62年)忠輝の改易が言い渡されてかおよそ約370年の時を経て正式に禁が解かれました。
真相は解明されていないとは言え親兄弟の関係でも忠輝のような処遇を受けてしまう事があります。ましてや他人同士では些細な行き違いから誤解を招いてしまう事が往々にしてあります。
会社でも私生活でもなるべくお互いの意見を交換しあって人間関係を良好に保つようにしましょうね。
ところで高田城のある高田公園の夜桜は弘前公園(青森県弘前市)、上野恩賜公園(東京都台東区)の夜桜と並び日本三大夜桜の一つとして数えられています。
機会があれば高田城の下で夜桜に囲まれながら家族や友人・知人と意見の交換をしながら仲良くお花見をしましょう!