お酒のお供!
お酒を飲まない人もついつい、つまんでしまう日本を代表する国民的お菓子「柿の種」!
1923年(大正12年)に柿の種は新潟で生まれました。
新潟県長岡市に本社を置く浪花屋製菓さんの創業者・今井與三郎(いまいよざぶろう)氏があられを作る際に使用していた小判型の金型をうっかり踏みつぶしてしまい、元に戻す事が出来ずに使用したところ歪んだあられになってしまった事が柿の種誕生の発端だそうです。
何がきっかけでヒット商品が生まれるか分かりませんね。「覆水盆に返らず」壊れてしまった事を嘆くのではなく「新しい物が生まれる可能性を秘めている」とプラス発想で考えた方が良さそうですね(^^)
ところで柿の種と言えば「柿ピー」と言う名称を思い浮かべる人もいるでしょう。柿の種にピーナッツ入りのものを初めて商品化したのが亀田製菓さんです。
さて新潟は日本屈指の米どころです。そして柿の種の原料はお米です。その柿の種を製造している会社の一つが亀田製菓さんです。
ここでのキーワードは「お米」です。
柿ピーをヒット商品にした亀田製菓さんの本社は新潟市江南区(こうなんく)にあるのですが同じ江南区にはお米と言うキーワードから外してはならない場所が存在します。
それが豪農の館と呼ばれている北方文化博物館(ほっぽうぶんかはくぶつかん)です!
江南区の沢海(そうみ)地区は江戸時代初期に溝口家を藩主とする沢海藩が置かれていましたが後に天領となりました。その地で江戸時代中期から代を重ねて越後随一の大地主となった一族が伊藤家です。
伊藤家の当主は代々文吉(ぶんきち)の名を名のっていますが現在残っている壮麗な本邸は5代目文吉が明治15年(1882年)から8年間かけて建てたものです。
その豪奢な建物と庭園は武家屋敷を連想させてくれます。
第二次世界大戦の終戦後、進駐軍の計画ではこの大邸宅は集団住宅にされる予定だったそうです。もしその通りになっていたら取り壊されて現在まで残っていなかったかも知れません。
なぜ現在まで残る事が出来たのか?その裏にはある偶然の出来事が隠されています。
終戦直後の1945年(昭和20年)、土蔵内に旧日本軍の隠匿物資があると言う情報を得た進駐軍が捜査のため伊藤邸にやって来ます。
その時、伊藤家の当主だった7代目文吉が調査員のライト中尉と会話を交わすうちに自分がペンシルバニア大学の先輩に当たる事が分かりました。
7代目文吉は当時では大変珍しくアメリカへの留学経験があったのです。
このような形での再会は正に奇跡ですよね。
文化に深い理解を持っていたライト中尉は伊藤邸を文化的価値のある遺構として地域のために残す博物館とすることを進駐軍上層部に進言しました。これにより豪農の館伊藤邸は戦後民間博物館の第一号となる「北方文化博物館」へと生まれ変わりました。
その後、1964年(昭和39年)の新潟地震、2004年(平成16年)の新潟県中越地震、2007年(平成19年)の新潟県中越沖地震と言う3度の大地震にも耐え現在に至っています。
↑この強固な梁が3度の地震から守りました。
必要なものは残される。度重なる危機を乗り越えて来た豪農の館はパワースポットかも知れませんね!
全盛期には1市4郡64ヶ町村に1,370万㎡(東京ドーム約300個)の田畑を所有した豪農に代わり、今は同じ行政区に日本を代表する米菓子「柿の種」を製造する亀田製菓さんの本社が置かれています。やはりお米はこの地域のキーワードですね。
【English WEB site】
http://japan-history-travel.net/?p=4707