善政を敷いた新発田城の歴代城主

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新発田城

会社は現代社会を動かしている代表的な組織体ではないでしょうか?

近年、ブラック企業と言う言葉をよく耳にします。会社が健全な状態で維持される為には従業員がやりがいをもって楽しく働き続けられる環境が必要です。

「草創(そうそう)と守文(しゅぶん)と孰(いず)れが難き」

中国の唐の時代に呉兢(ごきょう)が編成したとされる唐の第2代皇帝・太宗(たいそう)の言行録、貞観政要(じょうがんせいよう)に書かれている一文です。

現代語訳にすると「創業と、その後を維持し続ける事と、どちらが大変なのか」となります。

太宗のこの問いに対し側近の房玄齢(ぼうげんれい)が答えます。

「天下が乱れ、各地に群雄が割拠している状況下では、これらを攻め破り、降伏させ、戦に勝ち抜いて天下を平定しなければなりません。その様な命がけの困難な点から創業の方が難しいと思います」

これに対し魏徴(ぎちょう)が反論します。

「帝王が創業の為に立ち上がる時は、衰え乱れた前代を継承するため、ならず者を討ち平らげます。

そして人民は新しい帝王を喜んで迎え、こぞって命令に服します。帝王の地位は天が授け人から与えられるものですから、創業は難しいものではありません。

しかし一旦天下を 手中に収めた後は、気がゆるみ、驕(おご)り高ぶるようになり、当初の志から外れてしまいます。

これにより人民が平穏な生活を欲していても、労働の義務が課せられ、休むことができなくなります。

人民が食うや食わずの生活を送っていても、帝王の贅沢の為の仕事に安息はありません。国の衰退は常にこのようなことに起因します。よって守成の方が難しいと思います」

太宗は言います。

「房玄齢は昔、私に従って戦い、天下を平定し、九死に一生を得て今日がある。よって創業こそ困難と考えた。

魏徴は、私と共に天下を安定させ、我がままや、驕りが少しでも生ずれば滅亡への道を歩む事を憂慮している。故に守成の方が難しいと考えた。

今や、創業の困難は過去のものとなった。今後は汝等と共に守成の困難を心して乗り越えて行きたい」

創業の後、天下を安定させ続ける為に必要な事は、統治者が人民からの信頼を得て善政を敷き続けなければならないと言う事ですね。

新発田藩(しばたはん:現新潟県新発田市)の歴代藩主を務めた溝口氏は善政を敷き続けた藩主と言えるでしょう。

溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)は関ヶ原の戦いで東軍に付き、越後において上杉景勝が煽動する上杉遺民一揆(うえすぎいみんいっき)を平定しました。戦後、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩の初代藩主となります。

01 新発田城_溝口秀勝の像↑溝口秀勝の像

新発田藩は外様大名でありながら秀勝以降、江戸幕府の治世270年間に一度も改易、転封もなく続いた数少ない藩の一つです。

02 新発田城_表門 ↑新潟県内で唯一、江戸時代から現存する城郭建造物(表門)

歴代藩主が新田開発、新発田川の治水工事、法制の整備、財政改革、学問奨励などにより善政をしき続けた結果でしょう。

03 新発田城_旧二の丸隅櫓↑新潟県内で唯一、江戸時代から現存する城郭建造物(旧二の丸隅櫓)

江戸時代中期には、徳川光圀(とくがわみつくに(水戸黄門))が編纂を始めた「大日本史」の地理志の執筆を行った水戸藩の地理学者・長久保赤水(ながくぼせきすい)が新発田を訪れた際に「新発田侯の仁政は和漢古今いまだあらざること」と驚いたそうです。

04 新発田城_辰巳櫓↑辰巳櫓

このような善政を敷いた溝口氏の居城・新発田城は現在、新発田城址公園として整備されており市民の憩いの場となっています。

05 新発田城址公園

新発田城の見どころの一つに天守に相当する三階櫓(さんがいやぐら)があります。最上層の屋根の棟がT字型で、それぞれの隅に鯱(しゃち)が載る全国唯一の櫓です。

敵が攻めて来た際に方角を見誤らせる為にこのような造りにしたと言われています。

06 新発田城_三階櫓模型

↑三階櫓模型

07 新発田城_三階櫓

↑三階櫓

さて善政を敷いた溝口氏ですがその名残は現在も残されています。

新発田市の市章は藩主溝口氏の家紋「五階菱」です。旧藩主の家紋を市章にしている例は全国でも大変珍しい事だそうです。

08 五階菱

会社でも同じ事が言えます。従業員から親しまれていれば永続出来るのではないでしょうか。

とかく上に立つ者は驕りや圧政に走りがちになります。

強制や強要は時には必要な事です。しかし、度を超すと受けた側はやらされ感が強くなります。会社経営者に限らず誰もが上に立つ機会はあります。常に謙虚にしていたいものですね。

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