現代に生きる私達日本人が失くしてしまいつつあるものを彼らは潤沢に持ち備えていた。
「優しさ」「親切」「素直」「まごころ」などと言った部類のものを全て持ち合わせていたのではないかと思うほどである。
その時代に生きる人々と接した時どのような感覚に捉われるのだろうか?
渡辺京二氏の著書「逝きし世の面影」を読み終えた時に湧き出た感想である。
時代は江戸時代末期から明治初期。当時の日本人を描写した外国人の手記や書簡をまとめあげた一冊である。
そして、この本を読んだ時と似たような感覚に改めて出会う事が出来た。
ラフカディオ・ハーン。日本名は小泉八雲(こいずみやくも)。「耳なし芳一」や「雪女」などの「怪談」の著者である。その彼の著書「知られぬ日本の面影」の中の主な作品を抜粋し収めた「神々の国の首都」を読んだ時の事である。
八雲は1890年(明治23年)アメリカの出版社の通信員として来日したが同じ年に契約を破棄。その後、1904年(明治37年)に東京で亡くなるまでの14年間を英語教師の教鞭を執りながら松江・熊本・神戸・東京の四つの都市で過ごした。
彼はこの間に見て聞いて感じ取った日本の姿を記録し広く世界に紹介した。
彼の眼に映った当時の風景とはどのようなものだったのだろうか?
アスファルトで固められた道路を行き交う自動車。それは私達現代人にとってはあたりまえの風景である。
しかし道の両サイドに目を向けると一瞬にして異なる空間へと誘われる。
片側には豊富な水を貯えたお堀が、そして反対側には白い漆喰と茶色の板に覆われた武家屋敷の壁が続いている。
↑お堀からみた武家屋敷
↑武家屋敷
この空間は全長500mに渡って細長く伸びる松江市伝統美観指定地区の塩見縄手である。
縄手とは城下町においてひとすじに長く伸びた道を指す。塩見縄手の名は通りのほぼ中央に松江藩の家老職となった塩見小兵衛(しおみこへい)が居を構えていた事に由来する。
松江に赴いた八雲はこの塩見縄手にある旧士族根岸家の武家屋敷を借りて1891年(明治24年)5月から熊本に転任する11月までの6ヶ月間を過ごした。
この屋敷は小泉八雲旧居として国の史跡に指定され現存している。
八雲はこの屋敷の庭を大層気に入っていた。前述の著書「神々の国の首都」の中でもこの庭を語るのに多くのページを割いている。
↑小泉八雲旧居の日本庭園
塩見縄手に連なる武家屋敷。その屋敷の中にある日本庭園。
現代ではこのような景観を見ると私達日本人ですら高揚感を覚えるが、それが当時日本に訪れた外国人となれば高揚感どころではなかったのではなかろうか。
美しい景観は残しておかなければならないと誰もが思う。また、かつての日本人の心も失くしてはならないと誰もが思うはずである。
塩見縄手、小泉八雲旧居を訪れた際にはそのような思いを改めて強く抱いて頂きたい。