人と自然の環境に配慮された石見銀山

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緑の木々に埋もれてしまいそうな小さな入り口だがその先には全長600m、石見銀山で二番目の長さを誇る龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)が延びている。

01 石見銀山_龍源寺間歩の入り口↑龍源寺間歩の入り口

間歩とは銀鉱石を採掘する為の坑道の事である。

石見銀山(いわみぎんざん:島根県大田市)には大小合わせて600箇所を超える間歩が存在するが龍源寺間歩は石見銀山の中で唯一、常時一般公開されている間歩である。

228年もの間開発が続けられた龍源寺間歩の壁面には当時のノミの跡がそのまま残されている。その跡の一つ一つは石見銀山の長い歴史の一部として刻まれて来たと言えるだろう。

02 石見銀山_龍源寺間歩↑龍源寺間歩

石見銀山の歴史は推古天皇の時代(554~628年)、仙ノ山の頂上が輝き、霊妙仏が現れたと言う伝説に始まる。

江戸時代に編纂された「銀山旧記」によると鎌倉時代の末期(1308〜1311年)に周防(現山口市)の大内弘幸(おおうちひろゆき)が北斗星のお告げにより発見したと記されているそうだ。

本格的な開発は1526年、博多の商人神谷寿禎(かみやじゅてい)が開始したとされる。

1533年に灰吹法(はいふきほう)と呼ばれる銀精錬技術が導入されると良質な銀が効率的に生産されるようになる。

それにより時の権力者による石見銀山の争奪戦が繰り広げられる事となった。

1537年の尼子氏の攻略から小笠原氏、毛利氏と続き、1600年に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収めると徳川幕府が直轄領として明治まで領有した。

明治時代に入ると1895年(明治28年)に大阪の藤田組が近代的な清水谷製錬所を建設し操業を開始している。しかし、鉱石の品質が予想より悪かったなどの理由から不採算となり翌年には操業停止となった。

03 石見銀山_清水谷製錬所跡

04 石見銀山_清水谷製錬所跡

↑清水谷製錬所跡

その後、石見銀山で銅の生産を試みるも1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する大打撃を受け、完全閉山となり、鉱山としての役割に終止符を打った

さて、推古天皇時代の伝説も含めると閉山に至るまで約1500年の歴史を誇る石見銀山だが特に隆盛を極めたのはヨーロッパ全体が大航海時代と呼ばれる荒波の中を航行していた16世紀〜17世紀頃と言って良いであろう。

石見銀山が佐摩村にあったことから石見銀は「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、中国やポルトガル、スペインなど世界中で流通した。17 世紀前半の石見銀の産出量は年間約 1 万貫(約 38t)と推定されている。

資源に乏しい現在の日本からしたら驚くべき産出量である。

ポルトガル人の地図製作者フェルナン・ヴァス・ドラードが描いた「日本図」には石見銀山の位置にポルトガル語で「RASMINAS DA PRATA (ミナス・ダ・プラタ:銀鉱山王国)」と記載されているほどだ。

当時、世界の銀の約3分の1を日本の銀が占めていたと言われているがその内の相当量が石見銀山から産出されていたと容易に想像出来る。

ところで石見銀山以外の産出源の一つとして同じ時代に世界を席巻した銀山に南米ボリビアのポトシ銀山がある。

ポトシ銀山の掘削は強制的に集められたインディオを中心に行われアフリカからの奴隷も含まれていたと言う。労働条件は過酷を極め800万もの人々が犠牲になったと言われ「人食い山」として恐れられたそうだ。

05 ポトシ銀山(出店:ウィキペディア)

↑ポトシ銀山(出典:ウィキペディア)

では、石見銀山はどうだったのだろうかと思い少し調べたところ鉱山労働者の保護のために坑内環境の改善がされたり鉱山病で仕事ができない者やその子供に米を支給したり、あるいは健康のために味噌の支給や梅の栽培も行われていたとの事だった。

自国の鉱山が労働環境に配慮がなされていた事にホッとした。

更に自然環境に対しても配慮がなされていた。銀の精錬には大量の木炭が用いられていたが原料となる樹木は土石流などが起こらないように伐採場所が厳しく管理され、森林の再生が繰り返されていたと言う事だ。

実はこの事が大きな結果を招いている。

世界遺産の登録である。

石見銀山の登録は遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に登録が見送られそうになったが銀山の周辺に残る自然が逆転の決定打となり登録に至っている。

一般的に鉱山は岩肌がむき出しとなり殺伐とした風景が連想されるものである。しかし、石見銀山の遺構は緑に覆われている。海外の研究者はこれに驚き石見銀山が「環境と調和し、環境に配慮した開発がなされた」と高く評価した。

石見銀山の世界遺産登録には「自然との共生」がキーワードとなったのである。

ポトシ銀山も世界遺産に登録されているが労働環境の過酷さを戒めるため「負の世界遺産」に分類されているからこれとは対照的である。

石見銀山の自然への配慮は今も継続されている。

指定区域への一般車両の乗り入れは禁止されており移動手段は徒歩か自転車である。指定区域までは石見銀山世界遺産センターからバスが出ている。ここで基礎知識を得てから石見銀山の見学を行えばその楽しみも増すであろう。

06 石見銀山世界遺産センター

07 石見銀山世界遺産センター↑石見銀山世界遺産センター

08 石見銀山_駐輪場に置かれたレンタル自転車↑駐輪場に置かれたレンタル自転車

かつて役所や武家屋敷、商家が置かれた大森地区は緑の山々に囲まれ古い町並みが保存されている。

09 石見銀山_大森地区

10 石見銀山_大森地区

11 石見銀山_大森地区

12 石見銀山_大森地区↑大森地区

大森地区から龍源寺間歩までの道のりもやはり多くの自然が残されており周りの景色を楽しむ事が出来る。

13 石見銀山_大森地区から龍源寺間歩へ続く沿道

14 石見銀山_大森地区から龍源寺間歩へ続く沿道

↑大森地区から龍源寺間歩へ続く沿道

人間は物を造り出す為に公害を吐き出し多くの自然を破壊して来た。

しかし石見銀山を見学してもその現実と感覚は伝わって来ない。

温故知新」。。。。。石見銀山は産業と自然の共生のヒントを今に伝えている。

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