林羅山に起源を持つ湯島聖堂

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湯島聖堂_大成殿「言いがかり」「いちゃもん」「こじつけ」「揚げ足をとる」

あまり印象の良い言葉ではありませんね。

時にはこの「言いがかり」 で大きく事の流れが変わってしまうこともあります。

その最たるものの一つが「大阪の陣(冬の陣:1614年、夏の陣:1615年)」のきっかけとなった「言いがかり」と言えるでしょう。

どのような「言いがかり」だったのでしょうか?

関ヶ原の戦い(1600年)は簡単に言ってしまえば徳川家と豊臣家の戦いです。この戦いで勝利を収めたのが徳川家康です。

家康は関ヶ原の戦いの後、徳川幕府を江戸に開きます。

しかし、豊臣家の勢力は衰えるも徳川家にとってはまだまだ脅威でした。

どうしても豊臣家を滅ぼしたい家康は豊臣家を責めるきっかけが欲しいのですがなかなか良い機会が訪れません。

そんな折り京都の方広寺にその「言いがかり」を見つけ出します。

方広寺は豊臣秀吉によって建立され東大寺を凌ぐ大きさの大仏が造立されたとされるお寺です。その寺は慶長伏見地震によって倒壊しています。

それを息子の秀頼が再建したのです。

秀頼は家康の承認を得て開眼供養の日を待つばかりだったのですがそこに事件が発生します。

大仏と同じくその頃完成していた梵鐘が事件の中心です。

その梵鐘には「国家安康」「君臣豊楽」と云う句が刻まれていたのです。

待ってましたとばかりに、これにを「家康の家と康を分断し、豊臣家を君主とする」と解釈し徳川家を冒涜していると「言いがかり」を付けたのです。

以降、紆余曲折し大阪の陣へと進む事になったのです。

これがいわゆる「方広寺鐘銘事件」と呼ばれているものの概要です。

当時の情勢や慣例からすると必ずしも「言いがかり」とは言えないとも言えるようですが、現代の私達からするとやはり「言いがかり」に思えてしまいますね(^^;

さて、この「言いがかり」、誰が考えたのでしょうか?

それが当時、家康のブレーンの一人だった林羅山(はやしらざん)です。

羅山は江戸時代初期の朱子学派儒学者。

22歳の時、近世儒学の祖といわれる藤原惺窩(ふじわらせいか)の門下となり儒学でも特に朱子学について学びました。惺窩は羅山の聡明さに驚かされ家康に紹介します。そして23歳の若さで家康のブレーンの一人となりました。

そんな羅山ですが方広寺鐘銘事件の他にも驚きの論争に勝っています。

当時、大航海時代の只中にあったヨーロッパでは地動説、地球球体説が主流となっていたのですが羅山はそれを断固として受け入れずイエズス会の日本人修道士であるイルマン・ハビアンとの論争において論破したそうです。羅山に論破されたハビアンはその後、棄教してキリスト教徒の弾圧に協力したそうです。

どのような説明で打ち負かしたのかは知りませんが、ここまでやれば立派なものですよね(^^;

議論した内容の真実がどうであれ羅山は物事を論理的に組み立てることに長けた英明な頭脳を持ち合わせていたという事になります。

自論を貫き通せるだけの知識と説明力を身につける事は何かに大変な影響力を及ぼすものになり得るということですね。

そんな羅山ですが上野忍岡(現在の上野恩賜公園)の私邸に私塾を開き、そこに忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)と呼ばれる孔子廟(こうしびょう:孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物))を創建しています。

当時の将軍徳川綱吉は毎年のようにこの忍岡聖堂を訪れたようです。そして儒学の振興を図るため忍岡聖堂に代わる聖堂、大成殿を湯島の地に創建し、その際に林家私邸にあった廟殿と学問所を同じ地に移転させました。

01 湯島聖堂_大成殿 ↑湯島聖堂_大成殿

これが「日本の学校教育発祥の地」と呼ばれる現在の湯島聖堂(東京都文京区)の始まりです。

湯島聖堂はその後、林家の手を離れて私塾から幕府直轄となり昌平坂学問所と名を変え学問機関として利用されて行きました。

ちなみに「昌平」とは、儒学の祖である孔子が生まれた村の名前だそうです。それがこの地の地名にもなり今もその名残が残っています。

02 湯島聖堂_孔子の像↑湯島聖堂の敷地内にある世界で一番高いとされる孔子像

03 昌平坂 ↑湯島聖堂沿いにある昌平坂

明治に入ると新政府の所管となり、1871年(明治4年)に日本最初の博物館(現東京国立博物館)が置かれ、翌年の1872年(明治5年)には日本初の図書館が置かれたり、日本初の博覧会「湯島聖堂博覧会」が開催されたりするなど学問に関する日本初が連発されています。

04 湯島聖堂_杏檀門

↑湯島聖堂_杏檀門

また学校機関としては昌平坂学問所が源流となり現在の東京大学、筑波大学、お茶の水大女子大学へと発展して行きました。

羅山の「言いがかり」はさておき、彼の明晰さが私塾を開かせそれが湯島聖堂へとつながり今に至るまでの学問の発信源になったわけですね。

05 湯島聖堂_入徳門

↑湯島聖堂_入徳門

羅山の活動は「武家諸法度(ぶけしょはっと)」「諸士法度(しょしはっと)」「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)」などの撰定から外交文書の起草、朝鮮通信使の応接など多岐に渡っています。

日本は外交力に欠けるところがあります。言いがかりが良いか悪いかは別にして現代の日本人は羅山に学ぶべき事が多くあるかも知れません。

湯島聖堂を訪れたら羅山の明晰さを少しは貰い受けたいですね。

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