上に空の青、下に海の青。自然が織りなす濃淡の青色の間に人工的に造られた建造物の白を加える事で見事なグラジュエーションが構成されています。
↑みなとみらい21
横浜へ訪れた事がなくても、みなとみらい21の風景はテレビや雑誌などを通して誰もが目にしたことがあるのではないでしょうか?
その風景の中心的存在の一つになっているランドマークタワー。
直下には役目を終えた初代日本丸が周りの景色とのバランスを保ちつつ雄姿を堅持しています。
↑日本丸(手前)とランドマークタワー(奥)
日本丸は1972年(昭和2年)3月に鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」が千葉県銚子沖で暴風雨のため沈没し、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事がきっかけとなり建造された大型航海練習帆船です。
船と言えば水上に浮かんでいるのが一般的ですね。日本丸も例外なく水の張られたドックに係留されています。
ドック(dock)とは船の建造や修理をする施設を指しますが建造や修理をするにはドックから水を抜かなければなりません。
日本丸が係留されているドックの底はどのようになっているのでしょうか?
見てみたいですね。
それでは少しだけ移動しましょう。
日本丸が係留されているドックの横の道を挟んで反対側にあるドックヤードガーデンに行けばドックの底を見学することが出来ます!
↑ドックヤードガーデン
如何ですか?
このドックには約1万2,000個の石が使用されているそうです。精密に組み合わされた石のパズルは美しく重厚感があり芸術品と言って良いかもしれません。
ところでドック(dock)は日本語で「船渠(せんきょ)」と言います。因みに「渠」の意味を調べると「人工の水路。掘り割り。みぞ」と出ています。
日本丸の係留されている船渠(ドック)及びドックヤードガーデンの船渠(ドック)は共にかつてこの場にあった造船所「横浜船渠」によって使用されていたものです。
日本の近代化が加速する中、横浜港は重要な役割を担い、その整備が急がれるなか実業家渋沢栄一(しぶさわえいいち)と地元の財界人らによって1891年(明治24年)横浜船渠は設立されました。
横浜船渠は後に三菱重工業と合併し三菱重工業横浜船渠となり、その後三菱重工業横浜造船所に変更。その後も度々名称を変え現在の三菱重工業横浜製作所に至っています。
日本の近代化への幕開け以来数々の船を受け入れて来たであろうドックヤードガーデンのドックは日本に現存する民営としては最古の石造りドックであり「旧横浜船渠第2号ドック」として国の重要文化財に指定されています。
ここで一つ「2号ドックと言う事は1号ドックはどうなったんだろう?」と言う疑問が出て来ませんでしたか?
実は日本丸の係留されているドックが1号ドックです。
そうすると「1号ドックの方が古いんじゃないの?」と言う二つ目の疑問が出てきますよね。
↑日本丸が係留されているのがNo.1ドック
↑ドックヤードガーデンはNo.2ドック
私も疑問に思い日本丸を管理している「横浜みなと博物館」さんに直接質問させて頂いたところ回答を頂くことが出来ました。
了承を頂いたので以下そのまま転載致します。
『横浜船渠会社のドック(修繕用)は、海軍の技師恒川柳作(つねかわりゅうさく)がイギリス人技師H.S.パーマーの案に基づき設計と監督を行って、大小2個のドックを完成させました。
大は第一号ドック(現在、帆船日本丸係留)で、全長約168m、1万トン以上の軍艦も入渠可能。
小は第二号ドック(現在、ドックヤードガーデン)で、全長約128m、最大入渠船3,500総トン。
完成した順に第一号、第二号としたのではなく、設計時から大きいドックを第一号、小さいドックを第二号としていました。
第二号ドックから先に建設しました。これは、当時の横浜港に入出港するほとんどの船に対応できたので、先に完成させ操業させるためでした。また、小さい方を先に建設して、工事の問題点等を見つけ、これを大きいドック建設に生かすことなども考えられます。
第二号ドックは1894(明治27)年に着工し、1896(明治29)年に竣工しました。
第一号ドックは1896(明治29)年に起工し、1898(明治31)年に竣工しました。』
古い順ではなく大きさ順だったんですね(^^)
疑問が解消されてスッキリしました。
横浜みなと博物館さん、ありがとうございましたm(_ _)m
明治時代に造られた横浜船渠の二つのドックを起点に真上に高く伸びるランドマークタワー。明治以降成長してきた日本の姿を表現しているようにも思えます。
「温故知新」。。。古きを訪ねて新しきを知る。
この二つの建造物の間に流れて来た歴史を振り返れば更なる飛躍のヒントが見えて来る気がします。