「鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼(しゃかむに)は 美男におわす 夏木立かな」
歌人・与謝野晶子(よさのあきこ)の詠んだ句です。
発表当時は他の謹厳な歌人から神聖な大仏様に対して詠む句ではないと誹謗されたとか。
そんなこと事になるなど考えず夏木立の中に佇む鎌倉大仏の目鼻立ちの美しさを見て思わず歌にしてしまったのでしょう。
ちなみに鎌倉大仏は釈迦ではなく阿弥陀如来です。後年、与謝野晶子もこの間違いに気づいたようですが歌は修正されませんでした。
さて、国宝にもなっている鎌倉大仏は日本人なら誰でも知っている大変有名な大仏ですが確かな文献や資料がほとんど残されておらず歴史的な裏付けが取れていない謎に満ちた大仏だと言う事をご存知でしょうか?
「誰が造ったのか?」「どのような経緯で造られたのか?」「いつ完成したのか?」。。。。。。明確には分かっていないそうです。
他にも謎は有ります。
鎌倉大仏は高徳院の御本尊なのですが、実際のところ大仏を覆う本殿は無く柱の土台が残っているだけです。本殿は津波で流されたと言うのが通説になっているようですがこれも伝説の域を脱してはいません。
↑本殿の土台
また、先ほど鎌倉大仏は釈迦ではなく阿弥陀如来と説明しましたが釈迦と阿弥陀の違いは手の印相(ゼスチャー)だけだそうです。つまり手の印相だけを変えてしまえば簡単に釈迦と阿弥陀如来を入れ替えてしまう事が出来ると言う事になります。
興味深い事に「東関紀行(とうかんきこう)」と言う文献には建設中の大仏を阿弥陀如来として記載しているようですが鎌倉幕府の事績を記した「吾妻鏡(あずまかがみ)」では建造開始時を釈迦としているそうです。
阿弥陀如来である鎌倉大仏を釈迦と詠んだ与謝野晶子はこの事を知っていたのか?それとも直感でこの事に気付いたのか?これも謎ですね(^^;
ところで「なんだ、大仏の記録を残す文献が残っているじゃん」と思うかもしれませんがそもそも東関紀行も吾妻鏡もそれ自体の作者、完成時期など分かっていません。
謎ばかりなのです。
ちなみに吾妻鏡によれば鎌倉大仏の着工は1238年と言う事になっています。
以上のように謎に満ちた鎌倉大仏ではありますが謎とは裏腹に大仏そのものは私達に表面だけでなく内側まで惜しみなく見せてくれます。
では大仏の中へご案内しましょう。
如何でしたか?
首と胴体の付け根にある茶色の部分は補強のための強化プラスチックですが、大仏は全て銅で鋳造されています。
どうやって銅を手に入れたのでしょうか?
鎌倉大仏の銅は宋銭に近い成分であることが判明しているそうです。
鎌倉幕府が樹立される前、つまり平氏が権勢を振るっていた頃、平氏の棟梁だった平清盛は日宋貿易を振興し莫大な利益を出し平氏の財政基盤を固めて行きました。清盛は同じ時期に大量の宋銭を宋から輸入しています。
鎌倉大仏は源頼朝の命によって造られたと言う説もあります。もしかしたら平氏を倒した頼朝が清盛の蓄えていた宋銭を使って大仏を建立させたのかも知れませんね(^^;
鎌倉大仏の高さは11.3メートル(台座の高さは除く)。体重は121トンです。これだけのものが全て宋銭で造られたとしたら一体いくら使ったんですかね?
やはり鎌倉大仏は有名だけど謎ばかりですね(^^)
有名になるならないは造られた日や造られた経緯には関係ないと言う事を鎌倉大仏は示しています。これは人にも言えることではないでしょうか?
「有名になる=成功する」と言う分けではありませんが、成功する事も同じことが言えるでしょう。
大仏様は謎の真相を知っていると思いますが黙して語らず今日も皆さんの成功への道を見守ってくれています。