奇策は時に人を警戒させる。
野戦で敗れ圧倒的に優位な敵から逃れて城に籠もったとしても自軍の戦力は敵の知るところとなっている。そのような状況下において逆に城門を開け放ち敵を迎え入れようとした場合、敵軍の指揮を執る者が優秀で用心深ければその者の警戒心は膨らむであろう。
この心理を利用した場面が「三国志演義(さんごくしえんぎ)」に描かれている。
蜀(しょく)の国の軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)は圧倒的な兵力を持つ魏(ぎ)の国の軍が城に押し寄せた際に自軍の兵士達には真意を伝えず城内を掃き清め、城門を開け放ち、自ら一人楼台に登って琴を奏でて魏軍を招き入れるかのような仕草をした。魏軍の武将、司馬懿(しばい)は諸葛孔明が無策でこのようなことをするわけがないと奇策を恐れた。そして直ちに全軍撤退の命令を下した。
魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい:184年〜589年)の中国の兵法書「兵法三十六計(へいほうさんじゅうろっけい)」の第三十二計にあたる戦術「空城計(くうじょうけい)」である。
1573年、三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康の軍は武田信玄の率いる軍に完膚無きまで叩きのめされ壊滅状態となった。
この時、家康は敗走し命からがら浜松城へ到着した。そして全ての城門を開いて篝火を焚き、湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。
↑浜松城
家康は空城計を用いて危機を乗り切ったのである。
浜松城の歴史には欠かす事の出来ない一場面であろう。
さて、家康が浜松城の城主となった経緯を見てみよう。
↑徳川家康像(浜松城)
1570年、家康は武田氏の侵攻に備えるために三河(みかわ:現在の愛知県東部)から遠州(えんしゅう:現在の静岡県の大井川以西)へ拠点を移した。
最初の候補地は見付(みつけ、現在の静岡県磐田市)だった。しかし、築城を開始したものの中断し曳馬(ひくま:現在の浜松市中区曳馬町)へ場所を移した。
その理由は見付けは天竜川の東に位置しており武田軍に攻められると天竜川を背にする形になる。水量が多い時に戦となり籠城戦に持ち込まれると「背水の陣」となってしまう。家康はこの危険を避け天竜川より西に曳馬城を築いたのだ。
更に城の名前を変えた。
曳馬は「馬を引く」となる。つまり敗北を意味する。これを嫌い土地の名前も城の名前も変えたのである。その名前が浜松だった。
↑浜松城
浜松と言う名称はかつてこの地にあった荘園の名称、浜松荘から来ている。
荘園とは私的土地所有の形態とその支配機構を指すから家康は自分の支配の証としたかったのか?
背水の陣を避けるために場所を変え、マイナスイメージの名前から私的土地所有の意味を持つ名前に変えた事により浜松城は強運の城となったのであろう。それが前述の空城計も成功させたのかもしれない。
強運の城はその後、家康を天下人へと出世させた。
浜松城が出世させたのは家康だけではない。
浜松藩主は江戸期を通じて25人の藩主のうち老中6人、京都所司代2人、大坂城代2人、寺社奉行4人など多くの要職者を出している。
故に浜松城の別名を出世城と言う。
↑浜松城
特に天保の改革(てんぽうのかいかく)で知られる水野忠邦(みずのただくに)に至っては出世したいあまりに浜松城へ移ったと言うから恐れ入ってしまう。
もともと唐津藩(佐賀県)の藩主であった忠邦は幕府の要職まで昇進する事を強く望んだ。しかし、唐津藩は長崎警備の任務を負うことから幕府の要職には付けない。そこで浜松への転封を願い出たのである。
浜松藩も唐津藩も表向きは6万石であったが浜松藩の実封は15万3,000石。これに対し唐津藩は25万3,000石だったから唐津藩の家臣達は猛反発し水野家の家老だった二本松義廉(にほんまつよしかど)などは諌死まで遂げている。
それでも忠邦は諦めず国替えの画策に奔走し幕閣入りを果たし最終的に老中まで昇り詰めた。
ところで浜松城には出世ばかりでなく井上正甫(いのうえまさもと)のように不祥事を起こし左遷させられた例もある。
実は正甫の後に浜松城に入ったのが忠邦であるが忠邦の後を継いだ水野忠精(みずのただきよ)が出羽山形へ転封となると正甫の嫡男、井上正春(いのうえまさはる)が浜松藩主となっている。個人ではなく井上氏としてみれば返り咲いた事になる。
更に言えば正春は老中まで昇進しているし、正春の後を継いだ四男、井上正直(いのうえまさなお)もまた老中まで昇進している。そして正直は明治にはいり浜松藩が廃藩となるまで藩主を務めた。
こうして見ると左遷の例があるとは言うもののやはり浜松城は出世を促す城と言えるだろう。
現在、私たちが見る浜松城の天守閣は1958年(昭和33年)に建てられた復興天守である。家康が城主だった時代は土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。
↑浜松城
城主と共に城そのものも出世した事になる。
浜松城に訪れてその強運を得てみては如何だろうか?