透き通る水とそれを囲む山々。豊かな自然に恵まれた敦賀湾(つるがわん:福井県)。
↑敦賀湾
その最奥部に緑一面の風景が広がっています。
長さ約1.5 km、面積約40 haの広大な場所に平均樹齢約200年、17,000本の赤松・黒松が生い茂る気比の松原(けひのまつばら)です。
↑気比の松原
気比の松原は虹の松原(佐賀県)、三保の松原(静岡県)に並び日本三大松原の一つとされています。
このような松原に面する敦賀湾から抜け出して日本海を北西へ真っ直ぐ進めば朝鮮半島北部に到達します。
この朝鮮半島北部から現在の中国東北部及びウラジオストクを含むロシア沿海部にかけて698年に成立し926年に滅亡した渤海(ぼっかい)と呼ばれる国家が在りました。
日本の時代で言えば飛鳥時代の後半から平安時代の中頃、中国で唐王朝が栄えていた頃になります。
当時の日本は渤海と交流を持ち、日本から渤海へ派遣された遣渤海使は13回。逆に渤海から日本を渡って来た渤海使は34回だそうです。
日本人にとって馴染みの深い遣唐使の派遣回数は諸説ありますが多いもので20回とされていますからいかに渤海との交流が盛んだったのか容易に想像できますね。
その渤海使を迎え入れる為の宿泊施設が松原客館(まつばらきゃっかん)と呼ばれるものでした。今で言えば迎賓館のようなものでしょう。
この松原客館はどこにあったのでしょうか?
所在は明らかになっておらず諸説あるのですがその一つが気比の松原です。
その気比の松原から東へ約3kmの場所に氣比神宮(けひじんぐう)が鎮座しています。
↑氣比神宮(外拝殿)
気比の松原は古くからこの氣比神宮の領地であり古来より氣比神宮の神職が管理をしていたようです。そう言った意味で言えば気比の松原は氣比神宮の境内のようなものでしょう。
となると松原客館に宿泊した渤海使の世話も氣比神宮の神職が行ったと想定出来ます。
氣比神宮は「北陸道総鎮守」とも称され、古よりこの地域を見守って来ました。
主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)です。
伊奢沙別命は笥飯大神(けひのおほかみ)、あるいは御食津大神(みけつおほかみ)とも称される氣比神宮特有の神様です。
境内から少し離れた敦賀北小学校の校庭に「土公(どこう)」と呼ばれる小丘があります。
ここに氣比神宮の主祭神である伊奢沙別命が降臨したとされていますが今も聖域とされている事から調査が行われておらず詳細は明らかになっていないそうです。
↑土公
中はどうなっているのでしょうか?日本にはまだまだ不思議な場所が残されていると言う事ですね。
さて、この氣比神宮を代表するものは何と言っても鳥居でしょう。
境内入口に堂々と立つ鮮やかな朱で塗られた大鳥居は奈良の春日大社、広島の厳島神社の大鳥居とともに日本三大鳥居の一つに数えられています。
↑大鳥居
江戸時代前期の1645年に建てられたこの鳥居は太平洋戦争中の敦賀空襲により本堂を始め境内にある建物がほぼ焼失する中で戦火をくぐり抜けて残った建造物です。
氣比神宮の領地だった気比の松原も日本三大松原の一つですから氣比神宮は二つの日本三大◯◯を有する貴重な場所と言う事になりますね!
氣比神宮境内の片隅に目をやると角鹿神社(つぬがじんじゃ)と言う神社がひっそりと佇んでいます。
↑角鹿神社
角鹿神社は敦賀(つるが)の語源とされ氣比神宮の摂社の一つです。
摂社とは本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祀った社の事を指します。
では、いったい氣比神宮とどのような関わりがあるのでしょうか?
角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)とされています。
都怒我阿羅斯等命は「日本書紀」に第10代天皇・垂神天皇(すじんてんのう)の時に渡来した「意富加羅国(おふからこく:古代に存在朝鮮半島南部の地域。任那国(みまなこく)の事を指す)」の王子と記されているそうです。
そして、氣比神宮には天皇が都怒我阿羅斯等命に氣比神宮の司祭とこの地域の政治を任せたと言う伝承が残っているそうです。
これとは別に江戸時代末期まで角鹿神社の社家(しゃけ:代々特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)のこと)であった島家が角鹿氏後裔を称したことから角鹿神社の祭神を角鹿氏の始祖である建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もあるようです。
因みに建功狭日命は都怒我阿羅斯等命の20代の孫と言う説もあります。そうなると角鹿神社の祭神はやはり都怒我阿羅斯等命と言う事に。
なんだか複雑ですね(^^)
どの説であるにしろ角鹿神社は敦賀発祥の地である事に間違いなさそうです。
さて、その角鹿神社を摂社として有する氣比神宮は海の神様でもあります。その事が敦賀を海に大きく関わらせ発展させて来たのかもしれません。
古くは渤海使の宿泊施設である松原客館が存在し、現在は北海道行きのフェリー定期航路や、韓国行きのコンテナ船航路が開設され、日本海側の海運の要衝となっています。
では未来はどうなるでしょう?
1960年代に日本横断運河(にほんおうだんうんが)と言うものが計画さていました。
揖斐川と琵琶湖を利用して敦賀湾と伊勢湾を運河で結び、1万トン級以上の大きさの船舶を通すと言う計画だったそうです。この計画は無くなったものも今も一部を修正した運河の計画が構想されているようです。
もし、これが実現したら凄い事ですね!
氣比神宮の力によってこの計画も実現するかもしれないですね!
何事もそんな事はありえないと思った時点で未来の可能性は閉ざされます。
未来を夢見ながら気比の松原を散策し、氣比神宮で参拝しましょう。
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