街道沿いを流れる冷たく透き通った水の流れは美しい風景を創り出すだけでなく訪れた人に癒しを与えてくれます。
↑街道沿いを流れる前川
「妻入り」と「平入り」と言った建築様式の異なる家屋の間に顔を覗かせる土蔵。
↑妻入りの住宅
↑平入りの住宅
↑土蔵のある街並み
決して統一性があるとは言えない家々によって構成される町並みが熊川宿(くまがわじゅく:福井県)の魅力を引き立てていると言えます。
足並みを合わせる事は大事ですが、時にはその必要が無い場合もあります。その見極めが重要な事を示唆しているようにも思えます。
かつて若狭湾で獲れた鯛、鰯、カレイなど多種多様な魚介類は小浜(おばま)の街から京都へと続く若狭街道を通って都の食卓へと運ばれました。中でも鯖が多かったことから若狭街道は鯖街道とも呼ばれています。
平城宮跡や、奈良県明日香村で発掘された木簡から鯛の寿司など10種類ほどの海産物が若狭から運ばれたと推定されています。
若狭街道は1200年以上の歴史があると言うわけですね。
そのような鯖街道の宿場で江戸時代を通して随一の賑わいを見せたのが熊川宿でした。
そのきっかけは豊臣秀吉から若狭一国を与えられた浅野長政がこの地の重要性を見出し、1589年に人を集める事を目的に領民に諸役免除(税の軽減措置)を与え宿場町の整備を進めた事にあります。
その後も歴代領主はこの政策を引き継ぎ40戸ほどの寒村だった熊川は 200 戸を超える宿場町へと発展したと言う事です。
街道を散策すると熊川番所(幕府が関東を中心に主要街道に置いたものを「関所」、藩が置いたものを「番所」と言います)や、旧逸見勘兵衛家住宅(初代熊川宿村長宅)、荻野家住宅(熊川宿最古の町家)と言った建物が非日常の雰囲気を提供してくれます。
↑熊川番所
↑旧逸見勘兵衛家住宅
↑荻野家住宅
これらの建物に混ざって建つ得法寺(とくほうじ)は戦国時代、京への上洛を果たしその後天下統一を果たすべく越前の朝倉氏を攻める織田信長に従って敦賀に向かっていた徳川家康が逗留したお寺とされています。
↑得法寺
この時、家康は「村は熊川、寺は得(徳)法寺。余は徳川。因縁あるかな」と言ったとか。
お堅いイメージの家康もこんな親父ギャグを言うほどくつろいだと言う事でしょうか。
ギャグと言えば鯖街道の「鯖」の語源もある意味ギャグのようなものかもしれません。
その語源は諸説あるようですが一つは鯖は歯が小さい事から「小歯」「狭歯」をサバと読んだ事からと言うものです。
しかし、「狭」は「サ」とも読みますから狭歯がサバというは分かりますが「小歯」がなぜサバなのか?と思い調べたら「小」も「サ」と読むんですね。一つ勉強になりました。
因みに「鯖」と言う漢字はサバの色を表現しているそうです。
鯖と言う文字に関連してもう一つ。
皆さんよく使う成句がありますよね。
そうです「鯖を読む」です。
この鯖を読むの語源も諸説ありますがその一つが若狭湾で獲れた鯖が語源になっていると言うものです。
鯖は鮮度の低下が早い魚です。その為、水揚げ後に塩をふって運びました。京に着く頃に食べ頃にしなければなりません。この時間の読みを「鯖を読む」と言っていた事からこの成句が生まれたようです。
現代のように自動車のない時代は若狭湾で鯖が獲れると塩をふり、それを背負って鯖街道を京へ向かって急ぎ足で運んだのでしょう。
今も鯖街道筋には鯖を利用した鯖寿司が名物として観光客に喜ばれています。
↑焼き鯖寿し
近年、特に子供の魚離れの増加が問題視されています。
魚の脂に含まれるDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)と言った人間の体内で合成される量が非常に少ない機能性成分が、胎児や子どもの脳の発育に重要な役割を果たすと言われています。
鯖はDHA、EPAの含有量が青背魚の中でも群を抜いているそうです。
魅力ある熊川宿で美味しい鯖寿しを食べて鯖街道の歴史を学んで賢くなりましょう!
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