人は大なり小なり目標を掲げて生きている。
「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」
『戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭(いと)い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す』
と言う意味である。
1560年、幼少の頃より今川義元の下で人質として育った徳川家康(その当時の名は松平元康だった)は桶狭間の戦いに今川の兵として出陣していた。家康は総大将の義元が討死した知らせを聞くと追っ手を逃れて大樹寺(愛知県岡崎市:だいじゅじ(岡崎市民は「だいじゅうじ」と発音する)へと逃げ込んだ。
↑大樹寺_本堂
↑大樹寺_徳川家康像
しかし、寺は追撃の兵に囲まれた為、自害の道を選ぼうとする。
その時、大樹寺第13代住職登誉(とうよ)は家康に「厭離穢土欣求浄土」の教えを説いた。
家康は自害する事を留め大樹寺の僧兵と共に追っ手と防戦し退散させた。
時に家康19歳の出来事である。
以降、家康は「厭離穢土欣求浄土」を馬印に掲げるようになったと言う。
↑大樹寺_本堂内
若い時に壮大な目標を掲げる事はその後の人生に大きく影響する事は間違い無いだろう。
ご承知の通り、後に家康は戦国の世を終焉に導いた。
さて、追っ手を退散させた家康はその後、今川軍の撤退により空城となった自分の生誕地である岡崎城へと戻っていた。
この出来事を思っての事かどうかは分からないが徳川三代将軍家光が祖父である家康の十七回忌に大樹寺の伽藍の大造営を行なった際に本堂から山門、総門を通して岡崎城が望めるように伽藍を配置したとされている。
そして、現在も大樹寺の山門からは岡崎城を望む事が出来る。
↑大樹寺_山門
↑大樹寺山門・総門の先には岡崎城が
↑大樹寺_徳川家光建立の鐘楼
これは岡崎市の法や条例で定められているわけではなく市民が建物等で遮らないようにとの配慮によって今日まで保たれて来た事による。
郷土の英雄に今も尚、誇りを抱いているからだろう。
ところで徳川将軍家の菩提寺と言えば、東京の上野にある寛永時と、同じく芝の増上寺が有名であるが大樹寺も徳川将軍家の菩提寺である。
故に大樹寺には徳川氏の前身である松平家の始祖である松平親氏(まつだいらちかうじ)から家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)まで8代当主の墓が置かれている。
↑大樹寺_松平8代当主の墓
↑大樹寺_松平清康(家康の祖父)建立の多宝塔
そしてもう一つこの寺には徳川将軍家にとって重要な物が保管されている。
家康はその死に際に「遺体は駿河・久能山に葬ること、葬礼は江戸・増上寺で行うこと、位牌は三河・大樹寺に立てること」という遺言を残した。
これに従い、家康の位牌は大樹寺に祀られた。その後、江戸幕府の歴代将軍の位牌についても家康と同じように祀られて来た。
因みに、15代将軍慶喜の位牌は大樹寺に置かれていない。これは将軍職を引いた後も存命であったことと、臨終に際し自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式で葬られることを遺言した為である。
1〜14代徳川将軍の位牌の高さは臨終時の身長と同じとの事だ。
徳川将軍家の菩提寺に相応しい貴重な遺品と言って良いだろう。
↑1〜14代徳川将軍の位牌が祀られている宝物殿(位牌堂)
さて、家康が生涯の目標を定めた場所とも言える大樹寺だが、そもそも、その名前自体が家康の先祖である松平家の目標そのものである。
中国で後漢時代、諸将が戦功とその褒賞を論議している際、馮異(ふうい)はその功を誇らずこの会話から一人離れ大樹の下に退いた。そして士卒達は彼を「大樹将軍」と呼んだ。
唐名(とうめい、とうみょう、からな)とは、日本の律令制下の官職名・部署名を、同様の職掌を持つ中国の官称にあてはめたものである。
「大樹」とは征夷大将軍の唐名である。
家康は徳川幕府を開き征夷大将軍となった。
家康の先祖の目標は達成された。
大いなる目標を定めたなら大樹寺で参拝してはどうだろう。その目標は達成させられるかもしれない。