陽の光に反射して目に入り込む金箔の輝きと鮮やかな色合いは脳裏に強烈な記憶として残されるでしょう。
本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されている久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は徳川家康の遺命によりその亡き骸が埋葬された場所です。↑久能山東照宮_社殿
絢爛豪華で繊細な飾りを施した社殿は徳川幕府2代目将軍・秀忠(ひでただ)の命により1616年5月〜翌年12月の僅か1年7ヶ月と言う短期間で建立されたとの事。
驚くべき速さですね。
↑久能山東照宮_社殿の装飾
久能寺縁起によれば7世紀頃この場所に久能忠仁(くのうただひと)によって寺が建立され、そこに安置された観音菩薩像が補陀落山久能寺(ふだらくせんくのうじ)と称された事から久能山の名称が使われ始めたと言う事です。
戦国時代には武田信玄が久能城を築き、武田氏が滅亡すると家康の支配下に置かれる事となりました。
標高216mの山頂に近い位置にある境内へは日本平から発着するロープウェーを利用するか、駿河湾側に設けられた1,159段ある石段を利用すると言う2つの方法があります。
皆さんはどちらを選びますか?↑久能山のロープウェー発着所とロープウェー
↑石段(表参道)↑久能山からの眺め(駿河湾)
私は時間の都合上(いいわけかも(^^; )ロープウェーを利用しましたが階段も少しだけ利用してみました。山の中腹まで下って引き返してきたのですが良い運動になりますよ。
さて再び家康の遺命についてです。
家康は「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残しました。
これだけを読むと遺骸は久能山東照宮に残されているような感じもしますが、一般的には遺骸は日光東照宮に移されたとされています。
ところが遺骸を日光へ移したという記録は残っていないそうです。お墓を掘り起こしての調査もされていないので結局のところ真相は闇の中と言ったところでしょう。
家康はどちらに眠っているのでしょうかね?↑久能山東照宮_家康の遺体が埋葬された神廟
話は変わりますが境内に併設されている久能山東照宮博物館には日本現存最古のゼンマイ式の時打付時計が保管展示されています。↑久能山東照宮博物館
1609年、暴風に巻き込まれたスペイン船サン・フランシスコ号が千葉県の御宿(おんじゅく)に漂着しました。
家康は日本滞在中の乗船員に対し便宜を図り、最終的には船を用意し彼らを祖国に送り帰しています。
そのお礼としてスペイン国王フェリペ3世から献上されたのが博物館に保管展示されている時計です。↑家康の時計(本物は撮影禁止なので博物館入口の看板に載っている写真です)
時計の刻銘から1581年製とされているこの時計は分解調査の結果、当時の最高技術を駆使して作製されており、16世紀からのオリジナル部品が99%も残っている世界に類例がない時計と言う事が判明されています。
この時計、当時のスペインと日本は暦法が異なっていた事から時計の機能を果たしていませんでした。にも関わらず家康はこの時計をたいそう気に入り部屋に飾っていたのだとか。
愛用品がお墓の近くに保管されていたと言う事はやはり家康の遺骸は久能山に残されているのでしょうか?
となればこの件に関する軍配は久能山東照宮に上がるかもしれません。
ところがそうでもなさそうです。
家康は晩年、時計集めに凝っていた事から洋時計、日時計、砂時計など様々な種類の時計を集めていたそうですが、その中の一つ、熊の形をした「熊時計」が日光の「東照宮宝物館」に保管されています。
久能山東照宮、日光東照宮。果たしてどちらのお墓に家康は眠っているのでしょうか?
その答えは長い時を刻んできた家康愛用の時計だけが知っているのかもしれませんね。
美しいもの必要なものは大切に保管され続ける。
それに当てはまる久能山東照宮と家康の時計はこれかも長く保管され続ける事でしょう。
【English WEB】
The relationship between the clock that has been stored in Kunozan Toshogu Shrine and Ieyasu