福山町に黒酢の壺畑が拡がった真相

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一般的に畑と聞いて思い浮かべる風景は菜の花畑やトウモロコシ畑。あるいはキャベツ畑やニンジン畑と言ったところであろう。

しかし、霧島市の福山町で見る畑の風景は全く異なる。

壺畑である。

↑壺畑

桜島を背景に均整を持ってずらりと並べられた壺が創り出す風景は圧巻の一言だ。

この畑の側に立つとほのかに酸っぱい匂いが漂って来る。壺の中身は黒酢である。

黒酢は福山町の特産品なのだ。

1975年に坂元醸造株式会社の坂元昭夫会長が「黒酢」と命名して初めて全国販売を開始した事が福山町の黒酢を全国に広めるきっかけとなった。

福山町に行く機会に恵まれたなら『坂元のくろず「壺畑」情報館&レストラン』で黒酢を堪能する事も出来る。

↑坂元のくろず「壺畑」情報館&レストラン

黒酢にはアミノ酸と糖が多く含まれていおり、これらが発酵・熟成過程に「アミノカルボニル反応」という化学反応を起こし黒く変化するそうだ。

アミノ酸は旨みやまろやかさに影響しダイエットにも効用があるとされている。↑黒酢製品

黒酢に限らず酢の主成分は酢酸でありその効果には「血圧低下」「グリコーゲンの再補充促進(疲労回復)」「体内でのカルシウム吸収率向上」などが上げられる。

このような理由も手伝って現在では様々な料理に使用されている。↑黒酢のゼリー(坂元のくろず「壺畑」情報館&レストラン)↑黒酢のドリンク(坂元のくろず「壺畑」情報館&レストラン)

さて、全国区となった福山町の黒酢だがその製造方法は限定されているようだ。

薩摩焼の54ℓの黒い壺を使用し1年から3年もの長い時間をかけてゆっくり発酵・熟成したものだけを黒酢としている。↑薩摩焼の壺(坂元のくろず「壺畑」情報館&レストラン)

職人は香り、音、見た目などの五感を研ぎ澄まし一壺毎に確認して大切に育てる。畑で野菜を育てる事と何ら違いはない。これも壺畑と呼ばれる理由の1つであろう。福山町の黒酢の始まりは江戸時代の後期1800年代である。

始まりの理由は様々な要因が重なった事にある。

「温暖な気候、良質な地下水」「藩庁の置かれていた鹿児島市への上納米が福山港から運び出されていた為、米が手に入り易かった」「酢作りに適した薩摩焼の壺が完成したから」などである。

そして外せない理由がもう1つある。

当時の薩摩藩は現在の金額に換算して5000億円という巨額の借金を抱えていた。

そこで財政改革の1つとして1833年に家老となった調所広郷(ずしょひろさと)の指揮により幕府に禁制品として指定されていた寒天を内密で製造し中国やロシアに密売した。

その寒天製造に不可欠な良質の酢を福山で生産したのである。酢を仕込む壺もこの時に造らせたようだ。

地政的な理由よりもこの裏事情が福山町の黒酢造りに拍車をかけた事は容易に想像出来る。

話は変わるが福山町では安土桃山時代から江戸時代末期にかけて福山牧(ふくやままき)と呼ばれる馬の牧場が存在した。

島津氏第16代当主・島津義久(しまづよしひさ)が別の放牧場から100頭の馬を福山町に移して放牧場としたのが福山牧の始まりである。

最盛期には2500頭の馬が放牧され毎年100頭前後の馬が産出される九州最大の馬牧場だった。

関ヶ原の戦いで西軍側についた義久の弟であり島津氏第17代当主・島津義弘(しまづよしひろ)が東軍の徳川軍を敵中突破した際に騎乗していた名馬「小紫(こむらさき)」は福山牧の産とされている。

関ヶ原の戦いから200年以上後に島津藩の財政を圧迫した大きな理由の1つに徳川幕府が定めた参勤交代がある。その財政難を逃れるために福山の黒酢が必要だった。

福山町の特産品は徳川幕府によって窮地に追い込まれた薩摩藩を常に裏で支えた事になる。

窮地に立たされると人はそれを切り抜けるために策を弄する。

もちろん窮地に追い込まれれば苦しい思いもするがそこで得られた策や知恵は後々何らかの形で還元される事を福山町の黒酢は訴えたいのかもしれない。

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福山町壺畑のお土産情報です。

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