時流に乗った岩国城

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岩国城

岩国城(山口県岩国市)は吉川広家(きっかわひろいえ)によって築城されました。

有名な「三本の矢」の教えは毛利元就(もうりもとなり)が3人の息子である毛利隆元(もうりたかもと)・吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)らへ書いた教訓状です。

そして3人の息子の一人、吉川元春の息子が吉川広家です。つまり、毛利元就の孫にあたります。

岩国城の築城が開始されたのは慶長8年(1603年)。5年の歳月をかけ慶長13年(1608年)に完成しました。しかし、その後、元和元年(1615年)に徳川幕府の一国一城令により完成からわずか7年で廃城となっています。

錦帯橋を渡り徒歩10分程度のところに岩国城行きのロープウェーがあります。ロープウェーを降りて徒歩約10分で天守閣へ到着です。

現在はこのように簡単に行く事の出来る岩国城、当時はお城へ行くのも一苦労だった事でしょう。

そんな山城へ行くのに弁当として持参されたのが岩国寿司だそうです。その起源は山城では水の確保も難しい為、合戦に備える保存食として考え出されたと言う事です。

今では郷土料理となり観光客の舌を楽しませてくれます。

岩国寿司は一層で作られる通常の押し寿司とは異なり、一度に3升から1斗入る木枠の中に、魚の身をほぐして混ぜ込んだ酢飯を入れ、その上に岩国名産の蓮根、椎茸、錦糸卵などの具材を乗せ色を添えます。さらにその上に蓮の葉やばしょうの葉をのせ、同じ作業を繰り返します。

そして2層から5層に重ね、重石を置いて、数時間から一晩押し固めて味をなじませます。その後、木枠を抜いて、包丁で一人前8~12cm角程度の大きさに切り分けて作られます。

まるでお寿司のサンドウィッチといったところですね(笑)

さて、岩国城はなぜ山頂に造られたのでしょうか?

それは山の西側を通る山陽道を見張る為です。当時、山陽道は中国地方の主要街道だった為、ここを見張る事により、世の中の情勢を判断し、将来起こるかも知れない戦に備える事が出来ました。

しかし現代ではその役割は必要のないものとなっています。それが、現在天守閣の建っている位置に関係しています。

実は現在の天守閣の位置は従来建てられていた位置とは異なります。

昭和37年(1962年)に復元された天守閣は本来の位置から約30m離れた位置にありました。実際に山頂には当時の石垣が残されています。

なぜ、従来の位置とは異なる位置に復元したのでしょうか?

それは、従来の位置に建ててしまうと山の東側にある錦帯橋から見た時、お城の姿が見えなくなってしまうからです。つまり、見張りの役割が無くなった為、景観を重視して今の位置に建てられたと言う事です。

現在は錦帯橋とお城が美しい風景を創り出し、観光客の目をより一層楽しませてくれます!
もし、従来の位置に復元されていたらこの風景は見れなかった事でしょう。

岩国城は時流に載る事の重要性を山の上から伝えてくれています。

4層6階立ての天守閣の最上階からの眺めは絶景!

晴れた日には岩国空港、瀬戸内海まで見渡せる眺望です。ちなみに岩国空港はマリリンモンローが来日した際に到着した空港です。

この眺望を見渡せるのも現在の位置に復元されたからですね。

さあ、岩国寿司で腹ごしらえをして岩国城へ登りましょう!

【English WEB】
http://japan-history-travel.net/?p=5276

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