錦帯橋はどうしてその独特の容姿を持つ事になったのでしょう

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錦帯橋

まるで木工細工!

錦帯橋(きんたいきょう:山口県岩国市)は橋の形をした巨大な木の芸術品と言えるかもしれません!

その独特な橋の構造は力学上の観点からも純粋な木造アーチ橋であり「錦帯橋式アーチ構造」と呼ばれる他に類を見る事のない世界で唯一の橋です。

調査の結果「その工法は現代力学の法則に合致していて何ら改善の余地はない」と言われるほど技術的にも高水準の橋だそうです。

実際に橋の下から見上げた幾何学的な木の組み合わせは技術水準の高さを感じさせてくれます。

どうしてこのような凄い橋が出来たのでしょうか?

関ヶ原の戦いから1年後の慶長6年(1601年)中国地方の覇者・毛利元就の孫に当たる吉川広家(きっかわひろいえ)は岩国3万石の地に入ります。

合戦直後と言う事もあり戦後の緊張感から将来起こるであろう戦に備え山を囲むように流れる錦川を天然の外掘りに見立てその山頂に岩国城を築きます。

今は当時のような緊張感はありません。平和になった町を観光客が歩く姿を見て、お城も嬉しく思っている事でしょう。

城下町を形成するに当たり、山の麓(ふもと)には上級武士の居住区を置き、川を挟んだ対岸側に中下級武士や町民の居住区を置くことにしました。この二つの居住区をつなぐ橋が錦帯橋です。

当時は橋を頑強に造る必要はありませんでした。なぜなら戦の際には防御の為、取り壊す必要が有ったからです。それゆえに洪水が起こると橋は流され幾度となく架けかえられました。

しかし、関ヶ原の戦い以降、平和な時代が続きます。すると今度は逆に流されない頑丈な橋が必要になりました。

そこで3代領主吉川広嘉(きっかわひろよし)は流されない橋を架けることを決めます。

いつの時代も変化の波に対応して行く事は必要と言う事ですね。

橋の流失は橋脚が流される事に起因します。そこで橋脚を無くす事も検討されましたが錦川の川幅は200メートルあるため困難な事と判断されました。

そんな中、広嘉は中国の杭州の西湖には島から島へ次々に架けられた6連のアーチ橋があることを知ります。そして島の様な頑丈な橋脚を造りそこをアーチ橋でつなぐ構想を思いつくに至ります。

延宝元年(1673年)遂に当時の技術の粋を結集した5連のアーチ橋が完成します。翌年には洪水によって流失してしまいますが、同年に石垣を強化するなどしてすぐに再建されました。

その後、定期的な架け替えが繰り返えされ昭和25年(1950年)のキジア台風(台風29号)によって流失するまでの276年間、その姿を保ちました。

300年近く前から既に日本の技術力が高い水準に有った事に改めて驚かされます。

ちなみにキジア台風によって流失した理由は「戦時体制下で橋の補修がおろそかになっていた事や、前年に米軍が岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどが指摘されている」と言う事です。

錦帯橋は100回以上架け替えが行われ、その都度改良が加えられました。その技術は職人たちによって伝承されていったそうです。

ここには現代の日本の物造りの原点を垣間見る事が出来る気がします。改善を繰り返しより精度の高いものを造り上げる。日本の強みですね。

錦帯橋は当時の山陽道から外れた場所にありました。それにも関わらず山陽道を利用する旅人はわざわざ迂回して橋を見に行ったそうです。

ちなみに橋を渡れたのは武士と一部の商人だけだでした。橋を渡れなくても人々を引き付けるほど美しいと言う事でしょう。美しい物は人を動かす力を持っていると言う事ですね(^^)

今は誰でも橋を渡る事が出来ます。世界で唯一の木造アーチ橋を渡りに行きましょう!

【English WEB】

http://japan-history-travel.net/?p=5020

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