白い壁と緑の屋根の色差は存在感を生み出しながらも見る人の目には落ち着いた色合いとして映る。
名古屋城は大阪城、熊本城と並び日本三名城の一つに数えられる。
この城は徳川家康が九男・義直(よしなお)の尾張藩の居城として築城を命じた(1609年)ものである。
家康にとっては関ヶ原の戦い(1600年)で勝利をしたものの、依然として大阪城(当時は大阪城)の豊臣秀頼とその恩顧の西国諸大名の力は脅威であった。
そうした豊臣方の財力を衰えさせる為に家康は西国諸大名に名古屋城普請(土木工事)の助役を命じた。
この大名には城造りの名人・加藤清正も含まれており、特に重要な城の基礎となる石垣を清正に築かせている。
↑清正公石曳きの像
↑清正石(名古屋城最大の石。清正が積み上げたと伝えられて来た)
このようにして完成した名古屋城はもちろん豊臣家と西国諸大名との武力衝突に備えてのものであった。
西国諸大名はさぞかし辛酸をなめさせられた事であろう。
ところで名古屋城の屋根が緑色をしているのは銅瓦を使用しているからである。銅が酸化して緑色に変色したと言うわけだ。銅瓦を用いた理由は軽量化、耐火性に優れている事と同時に財力や権威の誇示のためでもあった。
ちなみに銅瓦が貼られた直後は銅の本来の色、つまり光沢のある茶色である。
昨年(2015年)、姫路城の保存修理工事が完了し真っ白な屋根に覆われた天守閣が話題になったが銅色に輝く名古屋城の姿も見て見たいと思うのは私だけだろうか。
色と言えば緑の屋根より更にインパクトの強い色が名古屋城には存在する。
「金鯱(きんしゃち)」である。
金鯱は名古屋城以外でも見る事ができるがなぜ名古屋城が有名なのだろうか?
江戸時代を通じて残った金鯱は名古屋城だけとされているようだ。その残った金鯱は東京の湯島聖堂で開催された日本最初の博覧会(1872年)に出展され脚光を浴びた。その後、海外に渡りウィーン万国博覧会(1873年)にも出展されている。
これ以降、名古屋城と言えば金鯱となったと思われる。
ちなみに金鯱は1945年の名古屋大空襲で焼失し、現在のものは復元されたものである。
名古屋城と金鯱は「信長」と言うワードでつながっている。
名古屋城の前身は、この地まで勢力を伸ばしていた駿府(現在の静岡)の今川氏が築いた城とされている。その城を奪って那古野城と名付けたのが織田信長の父・信秀(のぶひで)である。
信秀はこの城に居住したことがあり信長はこの城で生まれたと言われている。
その信長が、天守閣に鯱を用いた最初の人物だとされている。
信長はなぜ鯱を用いたのだろう?そもそも鯱とは何か?
鯱とはベースとなる身体は魚で頭は虎、背中には幾重もの鋭いとげがあり、尾ひれは空を向きそりかえっているという想像上の動物である。
海に生息するシャチとは別のものである。
奈良の東大寺大仏殿や唐招提寺の金堂の屋根には鴟尾(しび)と呼ばれる装飾が施されている。
↑東大寺大仏殿
鯱はこの鴟尾が変化したもののようだ。
中国の建築様式に見られる大棟の両端を上げたものが魚の形へと変化し鴟尾となった。そこへインドから伝わったマカラと呼ばれる怪魚が組み合されたのが鯱の起源のようだ。マカラはインド神話に登場し、水を操り敵を防ぐ力を持つことから門や装身具の装飾に用いられていたそうだ。
信長は安土城を建設する際に中国の禅宗建築、インドのヒンズー教建築、ヨーロッパのキリスト教建築などを取り入れた。
これらの建築様式の一部として水を操る鯱を防火の守り神として用いたのであろう。
ところで鴟尾の起源について面白い説がある。
鴟尾はイスラエルの幕屋(まくや:聖書に登場する移動式の神殿)の祭壇に設けられた角が起源と言うのだ。つまり鴟尾はキリスト教から来ている事になる。
北欧のロム・スターブ教会やボルグンド・スターヴ教会などの東方教会には鴟尾がデザインされている。
以前、高野山の記事を書いた時に仏教とキリスト教の関連について触れたが、このことからすると鴟尾の起源がキリスト教だったとしてもあながち間違ってはいないような気もする。
信長が安土城を建立する際に中国、インド、ヨーロッパの建築様式を取り入れたと書いたが鯱を採用したのは一石二鳥どころか一石三鳥だったと言う事になる。
これも信長の柔軟性が導いたことになる。
信長の様な既成概念にとらわれない事が成功への近道と言う事は間違いないだろう。
現在名古屋城の本丸御殿は2017年度の完成を目指して復元工事中である。現時点でも一部公開されているので訪れた際は是非足を踏み入れてい頂きたい。御殿内の装飾は金鯱に劣らず豪華な金色に彩られている。
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