「白糸の滝」と「音止の滝」の関連性

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白糸の滝

一本一本の糸は二度と同じ太さ形に紡ぎ出される事はないであろう。

その糸が無数に垂れ下がり自然のカーテンを創り出している。

2013年富士山を中心にユネスコ世界遺産の構成資産の一つとして登録された「白糸の滝」である。

01 白糸の滝

高さ約20m、幅約150mに渡り崖面の各所から流れ落ちる富士山の湧水がその希少性と芸術性を高めている。

滝壺に落ちた白い糸はエメラルド色に変わる事でより神秘的な風景を演出している。

02 白糸の滝

この滝壺を間近に見る事の出来る場所の片隅に、追いやられたように古い石碑が佇んでいる。石碑には食行身禄(じきぎょうみろく)と刻まれている。

03 食行身禄の碑

↑食行身禄の碑

興味がなければ見向きもしないだろう。

しかし、この石碑は白糸の滝が世界遺産に選ばれた事と大きく関わっている。

世界遺産の正式登録名称は「富士山 — 信仰の対象と芸術の源泉」である。

富士講(ふじこう)とは定期的に行われる「オガミ(拝み)」とよばれる行事と富士登山(富士詣)から成る江戸時代に成立した民衆信仰の一つである。

富士講の開祖・長谷川角行(はせがわかくぎょう)は白糸の滝で垢離(こり:水に入水し、身を清めること)をとり修行を行ったとされ、白糸の滝は富士講信者の巡礼の場となった。滝壺で水行中の信者の周りに現れる虹は「御来光」と表現されたようだ。

04 白糸の滝

食行身禄は富士講の中興の祖とされ、石碑は信者が建てたものとされている。

さて、富士講が創唱された時代から更に遡って白糸の滝の一場面を切り取ってみよう。

「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す 白糸の滝」

「おだまき」とは、紡いだ麻糸を、内を空に、外を玉のように丸く巻いたものである。

白糸の滝に荒々しさは無く淑やかな女性的な滝だがこの歌にも柔らかさを感じる事が出来る。

が、しかし、この歌を詠んだのは男性的な峻厳さを感じさせる武士の世の始まりを築いた鎌倉幕府初代将軍の源頼朝である。

頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩(まきがり)のことを「富士の巻狩り」と呼ぶ。巻狩りとは鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟の事である。

この巻狩りを催した時に詠んだのが先ほどの歌である。

頼朝のセンスの良さを垣間見る事が出来る。

さて、淑やかさを感じさせる白糸の滝と台地を隔てた目と鼻の先には豪快で荒々しさを感じさせる別の滝が存在する。

富士の巻狩りが行われる中、ある密談がこの滝の近くで行われた。

巻狩には頼朝の臣下だった工藤祐経(くどうすけつね)が参加していた。この人物は曽我祐成(そがすけなり)・曽我時致(そがときむね)兄弟の父親を殺した人物である。密談は曽我兄弟が親の仇である祐経を討つ計画についてだった。

曽我兄弟が会話を進める中、滝の音が凄まじいので「心ない滝だ」と呟くと、滝の音はピタリと止み、会話を終えると再び轟音を響かせた。その後、兄弟は巻狩の最後の夜に祐経の寝所に入り見事仇討ちを果たした。

それ以来この滝は「音止の滝(おとどめのたき)」と呼ばれるようになったと伝えられている。

05 音止の滝

↑音止の滝

因みに「曽我兄弟の仇討ち」は「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

音止の滝から数百メートル離れた場所には曽我兄弟が密談をしたとされる「曽我の隠れ岩」や「工藤祐経の墓」が存在する。

06 曽我の隠れ岩

↑曽我の隠れ岩

07 工藤祐経の墓

↑工藤祐経の墓

淑やかな「白糸の滝」。豪快な「音止の滝」。対照的な滝ではあるが曽我兄弟の仇討ちのストーリーを眺めた時、二つの滝は源頼朝を媒体にして一体と見た方が良いかもしれない。

更に付け加えるなら別の視点で見た時には公式に一体とみなされている。富士宮富士山世界遺産課の発行しているパンフレットには以下のように書かれている。

『「白糸ノ滝」は、国指定(1936年指定)の名勝及び天然記念物として、「白糸の滝」と「音止の滝」を含む周辺地が指定されている。そこで、滝そのものを示す場合は「白糸の滝」と表記し、指定文化財として指定地全体を示す場合は「白糸ノ滝」と表記し、区別している。』

08 白糸ノ滝

一見すると何の関連性も無いように思われる物や事象も何かをテーマにした時にその関連性に気づかされる事もあるだろう。

「白糸の滝」+「音止の滝」=「白糸ノ滝」のように。

09 白糸ノ滝

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