総門をくぐると現れる一直線に延びる緩やかな上り坂。
両側に迫る苔に覆われた岩肌。
視界に入るもの全てが一点に向かって吸い込まれるように凝縮されて行く風景。
琴坂と呼ばれるこの参道は興聖寺(こうしょうじ:京都府宇治市)の境内へと続きます。
↑総門
↑琴坂
ちなみに琴坂の名の由来は谷川のせせらぎが琴の音のように聞こえる為だとか。
興聖寺は宇治に在っては平等院と言う圧倒的な存在感の陰に隠れてしまい目立たない存在となっていますが訪れた人を魅了する空間を最大限に創り上げている事は間違いありません。
竜宮造りの山門。
宇治十境の一つに数えられる鐘楼。
薬医門の向こう側に広がる美しい庭園。
↑薬医門
↑庭園
穴場とはこのような場所を指すのでしょう。
日本における曹洞宗の開祖・道元(どうげん)は1233年、深草(現在の京都市伏見区深草)に僧侶の教育・育生を目指す日本初の禅道場である日本曹洞宗最初の寺院を開創しました。それが興聖寺です。
↑座禅会が行われる僧堂
道元はその後、越前に移り日本曹洞宗の大本山となる永平寺を開創します。
一方、道元が去った後の興聖寺は応仁の乱(1467年)などの戦火により荒廃の一途を辿ります。
いつの時代も戦乱はマイナスでしかありませんね。
長い間衰退状態に置かれていた興聖寺ですが江戸時代前半の1648年、この地方を治めていた永井尚政(ながいなおまさ)によって現在の地(宇治市宇治山田)に再興されます。
再興に当たっては関ヶ原の戦い(1600年)において戦乱に巻き込まれて落城した伏見城の遺構が利用されたと言われています。
この為、法堂には討ち死にした武士の血が染み込んだ伏見城の床板が天井に張られています。これを血天井と呼び、死者を供養する為に足で踏まないよう天井に利用したというのがその由来となっています。
↑法堂
↑血天井(丸で囲んである部分が手形跡)
さて、天井と言えば尚政は江戸幕府において宇都宮城釣天井事件で本多正純(ほんだまさずみ)が改易された後、大老に昇格しています。
宇都宮城釣天井事件が実際にあったのかどうかは不明のようですが事件は時に人を思いもよらない方向へ運びます。
尚政は再興した興聖寺に道元に深く帰依していた曹洞宗の僧・万安英種(ばんなんえいじゅ)を迎えました。
万安英種はこの後、雑学事件(ざつがくじけん:1653年)と呼ばれる事件に巻き込まれます。
雑学事件とは気になる事件名ですね。どんな事件だったのでしょうか?
戦国時代、織田信長は延暦寺や本願寺の宗教勢力に非常に手を焼きました。宗教勢力は結束力が強い為、時の権力者の脅威となります。
そこで、徳川幕府は宗教勢力も幕府の管轄下に入れるほうが得策と考え、特に農村や武士階級に影響力を持つ曹洞宗の関三刹(かんさんさつ:江戸時代に関東における曹洞宗の宗政を司った3箇所の寺院)に宗派統制の権限を与え、住職も幕府の任命制にして、統制を図りました。
さて、雑学事件です。雑学事件の雑学とは宗門の教えの中心になっている宗旨以外の異端説を指しています。この事件は修行中の僧が曹洞宗の宗旨に背いた書物を講読したとして関三刹によって罰せられたことに端を発した事件です。
実際のところ関三刹の主張には正当性が無かったようですが、その言い分が通り万安英種らを含む僧が処罰されました。
興聖寺を中興の祖とも言える万安英種が同じ宗門である関三刹に罰せられるとはやはり事件は人を思いもよらない方向へと運んで行くと言う事ですね。
結局この事件は幕府の管理下に置かれた関三刹を正当化する事によって幕府の権威を強化しようとした事件と言えるでしょう。
雑学とは一般的に多方面に渡るまとまりのない知識や学問。あるいは学問とは関係のない雑多な知識の事を言います。
雑学の対義語(反対語)は有りませんが仮にそれを本学としたならば雑学事件は簡単に言うと本学以外の雑学を学ぶなと言った事件と言えるでしょう。
しかし、雑学は視野を広め教養を高めてくれるはずです。
宇治において平等院が本学の寺ならば興聖寺は雑学の寺と言えるかもしれません。
平等院を訪れた際には興聖寺にも寄って頂き雑学を語りましょう!