一度に多種多様な食材の味を楽しめると得をした気分になりませんか?
ごった煮はこの一品で人参、鶏肉、れんこん、ゴボウなど一度に多くの食材の味を楽しむ事が出来ます。
お得感満載ですよね。
それは料理だけに限った事ではありません。
名古屋の大須の街はアーケードに覆われた大須商店街を中心に家電製品、情報機器、各国料理、トレンドファッション、家具屋、仏壇店、格闘技用品店など1,300店舗以上の多種多様な店が集まっているため「ごった煮の街」と呼ばれています。
↑大須商店街
通りを散策するだけでも楽しくワクワクするお得感満載の街と言えるでしょう。
その大須の街に一際目を引く建物があります。
純白の昇り竜!
入り口の頭上を彩る電光掲示板!
何だと思いますか?
なんと!お寺です。
万松寺(まんしょうじ)は織田信長の父である織田信秀(おだのぶひで)が織田家の菩提寺として建立したお寺です。
信長が信秀の葬儀の際に位牌に抹香を投げつけた事件は有名ですね。その舞台となったのがこの万松寺です。
故に今も信秀の供養塔が祀られています。
↑織田信秀公供養塔
万松寺は何でもありと言う意味では大須に溶け込んでいるお寺と言えるのではないでしょうか。
時代の先取りをして新しいものをどんどん取り入れた信長の菩提寺なのでその派手さも納得出来ない事もないですね(^^;
更に大須にはもう一つ外せないお寺があります。
それは大須観音です!
↑大須観音
↑大須観音_仁王門
↑大須観音_鐘楼
大須観音の正式名称は「北野山真福寺宝生院(きたのさんしんぷくじほうしょういん)」です。
聖観音(しょうかんのん)を本尊として祀る真言宗智山派の別格本山であり東京浅草の浅草観音、三重県津市の津観音と並び日本三大観音の一つに数えられています。
さて、大須のごった煮の代表(?)とも言える万松寺及び大須のシンボルとも言える大須観音は共に他から移転されて来たお寺です。
徳川家康が関ヶ原の戦い(1600年)で勝利すると大坂城の豊臣家との武力衝突に備える必要が出て来ました。
戦国時代、尾張地方(愛知県西部)の中心地は信長の居城であった清洲城とその城下でしたが清洲の地は水害に弱く地形上弱点を持っていた為、家康は名古屋城の築城を決めます。
この築城に合わせて大須界隈が神社仏閣の多く集まる場所として指定されました。
それにより現在の名古屋市中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていた万松寺は1610年に大須へと移転される事となります。
更にその2年後の1612年、家康の命により岐阜県羽島市桑原町大須にあった真福寺(大須観音)が現在の地に移転され、その後大須は大須観音の門前町として発展して行きました。
↑大須観音の門前町(大須商店街_大須仁王門通)
これが大須観音及び大須の地名の由来となっています。
ところで、「移転」→「移す」→「うつす」と言う言葉は大須のキーワードかもしれません。
大須観音には、ある国宝の書物が保管されています。
それは古事記の写本です。
写本とは文字通り「(刊本に対し)書き写した本」の事を指します。
大須観音に保管されている古事記の写本は「真福寺本」と呼ばれ1371年〜72年に真福寺(大須観音)の僧・賢瑜(ケンユ)が写した写本であり、古事記の写本としては日本最古のものです。
大須観音が移転される前、羽島にあった真福寺(大須観音)は何度も水害に遭い多くの書物が流れ去ったそうです。
真福寺(大須観音)に貴重な古文書がある事を知った家康は水害から守るために岐阜から大須へ真福寺を移転させたと言う事です。
ちなみに江戸時代の国学者であり文献学者の本居 宣長(もとおりのりなが)は約35年の歳月を費やして当時の「古事記」研究の集大成である注釈書「古事記伝」を完成させていますが、この時参考にしたのが「真福寺本」だそうです。
「移す(うつす)」事により新たな取り組みや改善が生まれ発展へとつながります。
「写す(うつす)」事により多くの事を後世に伝え様々な事象の発展につながります。
大須の街は移された事により発展して来たと言えるかもしれません。しかし、1960年代の時期は大いに寂れシャッター商店街となった事もあるそうです。
しかし、街全体の構成を新しい構成へ移す事で「ごった煮の街」として老若男女様々な人が集まる活気ある街へと変貌しました。
↑大須商店街
もしかしたらこれには国宝の写本「真福寺本」を保管する大須観音の目に見えない力添えがあったかもしれませんね。
名古屋に訪れる際は大須観音の見守る「ごった煮の街」大須で一度に多種多様のお店を散策してお得感を味わいましょう!
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